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発言する斎藤さん
■斎藤貴男さんの発言
障害者のみなさんが今いろんな危機感を感じていらっしゃるのは、非常によくわかる。
というのは、私の場合は、いろんな現実に起こっている現象を取材して、それを書いたりしゃべったりするのが仕事です。この仕事を始めて25年くらい経つのですが、すごく感じることがあります。もちろんその間、時代は変わったわけですけれども、取材先のリーダーとされるような人たち、たとえば財界の人、自民党の政治家、官僚などに取材をして歩くと、その人たちの基本的な目線、視線というものがものすごく高くなっているというのをここ数年、感じるんですね。
たとえば今、格差社会のようなことが知られるようになりましたけれど、以前だって世の中にはいろいろ矛盾があったわけです。障害者差別というものもあったでしょうし、学歴差別というようなものもあった。まだしも、所詮相対的な話ですけれども、僕が社会人になったころ、80年代前半ですが、そのころはいわゆるリーダーと呼ばれる人たちは、まだそれなりの「たしなみ」をもっていたような気がします。あまりふざけたこと、弱い立場の人をバカにしたような口をきくと、当然たたかれるし、仮にも社会的地位の高い人間がうかつなことを言うということは恥ずかしいことであって、世間の糾弾をあびる。そういうことをそれなりに気をつけている方が多数派であったのではないかという気がするんです。
ところが、ここ10年ぐらい前から、そういった雰囲気がどんどん変わってきていて、最近になると、いわゆるエリート層以外の人間をどこまでバカにしたり、差別したり、見下したりするかがリーダーの資質みたいな、そういうふうに勘違いする人がとても増えました。
石原慎太郎都知事が代表ですけれども、彼はかつて、障害のある人に「人格はあるのか?」とか、あるいは自衛隊の駐屯地であいさつをするときに、「三国人がいずれ騒擾(そうじょう)事件を起こすから、そのときこそ諸君の出番だ」というような発言をした。最近だと、オリンピックで東京が国内の候補地になったわけですが、そのときも、福岡の応援演説をした東京大学の姜尚中先生に対して、「怪しい外国人が何かおかしなことを言っている、生意気だあいつは」と。これって一昔前だったら、都知事どころか人間失格の烙印を押されて当然のようなセリフだと思うんですね。ところが、ろくに問題にもならず、むしろこういう差別的な発言をすればするほど人気が集まってしまう。いったいこの社会はどんなことになってしまったんだろうという思いがつくづくいたします。
気分は悪いんですけれども、最近の彼らの発言をいくつか紹介してみたいと思います。格差社会というのを考えるのに非常に重要な要素だと思います。というのは、いま格差社会というのがようやく多少問題になってきているんですが、多くの場合この所得格差のことばかり、たとえば国会などでは語られています。ですが、そうではない。お金の問題はもちろん大事なんですけれど、それ以外のほとんどあらゆる領域にわたってこの格差というのが広がっており、それはなぜならば、今の為政者たちがはっきり自分たちの仲間内以外の層を見下しているからだと私は思うんです。
典型が竹中平蔵さんなんですね。この人は2001年、小泉政権の誕生とともに閣僚入りをしたわけですけれども、どうして彼が閣僚になることになったのか、何が評価されて抜擢されたのかということですが、ちょうどその1年前の2000年に彼がこういう発言をしています。『経済ってそういうことだったのか会議』という本で述べている。この本は、当時はやった「だんご3兄弟」という歌のプロデューサーだった佐藤雅彦さんという人と竹中さんとの対談で進められる本なんですね。その中で彼はこういうことを言うんです。まず、「理想の税は人頭税だ」と言う。これは要するに、億万長者もホームレスの人も同じだけ税金を払えと。なぜなら国家というのはつまるところ防衛と警察である。
たとえば他国に侵略された場合に、防衛は分け隔てなく守ってくれる。軍隊ですね。警察は犯罪に対して分け隔てなく捜査をしてくれる。そもそもこの大前提から大ウソですけれども。お金持ちのためにはがんばるかもしれませんが、そうでない人に対してはまったく彼はがんばらないわけですから、まったく大前提が狂ってくるんですけれども、彼はそういうんですね。
だから、「お金持ちだって貧乏人だって同じように恩恵を受けるわけだから、税金は同じでよい」というのが彼の主張です。ところが実際にはそうはならない。実際には「所得の再分配」という考え方が蔓延していてそうならないんだと。佐藤さんが「所得の再分配ってなんですか?」と尋ねると竹中さんはこう答える。
「たとえば佐藤さんはお金持ちだとします。こちらにいるAさんは貧乏人。Aさんは貧乏だから佐藤さんのお金がほしいんです。でも泥棒するわけにいかないから、政府を通して佐藤さんのお金をねらうんです」と彼は言います。
次にこういう例え話。「子どもたちが砂場で遊んでいます。一人の子どもはお金持ちなのでたくさんオモチャを持っています。一人の子どもは貧乏人の子なのでオモチャを一つしか持っていない。でもだからといってこの貧乏な子の親が自分の子に向かって「あの子はたくさんオモチャを持っているからあなた行って盗んできなさい」とは言わないでしょう。しかし政府はこれをやってあげる。
つまり、所得の再分配という、たとえば社会保障、社会福祉といったものは、貧乏人がお金持ちから泥棒するための方法なんです。つまりたかりなんですということを竹中さんは本で著している。これこそ新自由主義という構造改革の根幹をなす思想の中核なんですね。まさにその考え方が評価されて、彼は実際、構造改革を進めてきた。さすがに人頭税というのは実現していませんけれども、今彼らがやっている構造改革というのはまさに、所得再分配という考え方そのものをぶちこわす、つまり、お金持ちだけがよければいい、そうでない人間は死んでしまえと、別にそれでも困らんよ、という世の中を彼らはつくっているということです。
もう一つ、こういうエピソードもあります。最近、小池清彦さんという、元防衛庁の教育訓練局長だった方とシンポジウムでご一緒したんです。この方は東大法学部を出て防衛庁入りをしたエリートなわけですが、今もうリタイアして故郷の新潟に帰って加茂市長をしています。この方は考え方としては憲法を変えるのも反対ですし、イラク戦争も反対という立場です。
この方がこんな話をしていました。朝鮮戦争のときも、ベトナム戦争のときも、9条第2項、交戦権の否定した条文がなかったら、われわれ自衛隊は戦場に駆り出されて戦闘行為をしていたはずだ。湾岸戦争でも、イラク戦争でも、自衛隊は派遣されているけれども、とりあえず戦闘行為をしないのは9条2項があるからで、もしも今これがなくなったら、イラクにいる自衛隊はその日から戦争をするだろう。「してはいけない」ことにならないわけですから。そういう正面切った戦争になったら、今のようなやり方では自衛隊員は集まらない。当然徴兵になる。ですから、憲法を変えて戦争できるようになった場合に自分の身内が戦場に駆り出されて、憎んでもいない相手を殺させられて、挙げ句死んで帰ってきてもいいというのであれば、大いに憲法改正に賛成してほしい。そうでないなら、ちょっと考えたほうがよろしいよと、こういう話を小池さんはされていました。
私はほとんど共感するんですけれども、一点だけちょっとちがう考え方をもっています。というのは、もしかしたら「徴兵」にならないかもしれない、ということなんです。でもそれはいい話というわけではなく、なぜ「徴兵」にならないかというと、世の中の仕組みをアメリカみたいにしてしまえばいい。つまりアメリカは、第二次大戦後もずっと戦争をしてきた国ですが、「徴兵」はベトナム戦争の一時期を除いておこなっていません。つまりみんな「志願兵」なわけです。なぜ本当にやる戦争に志願するのか。それはアメリカでは、貧しい家に生まれたが最後、まして黒人だとかマイノリティの立場で生まれたら最後、戦争に行ってできるだけたくさん人を殺して手柄を立てないと、一生浮かび上がることができない社会だから、だから徴兵をしなくても兵士が集まるわけです。いまやもうアメリカでは貧しい人たちが働く先は軍隊しかないようなもので、ですから軍隊が世の中の仕組みになってしまって、戦争をしないと彼らは食えなくなってしまっているわけです。日本の今の格差社会と呼ばれるものも、このままいけば、もしもそのレベルに達してしまったとしたら、これは徴兵しなくてもちゃんと兵士が集まる、こういう筋書きなんですね。
だれもそうはっきり言う人はいませんが、自民党の方とお話をしていると、そういう思いがひしひしと感じられます。また、印象論だけでなく、自民党は今「新憲法草案」というのを出していますが、一昨年の段階で出した「憲法改正草案大綱」という文章の中には、なぜか唐突に「徴兵制はいたしません」と書いているんですね。一方で、国防の責務を国民に求めながら、徴兵はしないという。しますよと宣言されるよりはいいんですけれど、どうやって兵士を集めるかというのにはこういう構想があったんだと私は考えています。
でも多くの場合、自民党の人や経団連の人などにこういう話をするんですけれども、そのたびに、「いやあ日本は大丈夫ですよ、そんなに簡単に戦争はしませんよ」とみなさんおっしゃる。「何を根拠にそこまで言い切れるんですか」と聞いたら、「だってわれわれは日本人ですよ、日本人は優しいんですよ」と、根拠はこれだけなんです。よくそんないい加減なことで物言えるなあと思うんですが。
現実に、日本の格差のレベルというものがアメリカとどれほどかけ離れているかといえば、人種問題がアメリカほど大きくありませんけれども、実はそんなに変わらないという数字も最近出ました。OECD(経済協力開発機構)が、2000年の段階で調査した数字です。日本の相対的貧困率は13.5%。相対的貧困率というのは、全所帯の平均的な所得、可処分所得(収入から税金などを引いた自由に使えるお金)の平均値、その平均値の半分に満たない所得のお宅がどれほどあるかというと、全所帯の13.5%ある。アメリカは13.7%。たった0.2%しか違わないということ。もちろん世の中の仕組みが違いますから、そう単純な比較はできません。ですから、アメリカ並みの差だというつもりはないんですけれども、しかし、客観的な数字ではここまできてしまった。OECDがそのとき調査対象とした先進17ヵ国のうち、1位と2位なんですね。一億総中流なんていっていた日本は、いつの間にか先進国の中で第2位の貧困大国になっている。
怖いのは、これが2000年の段階だということです。それまでも中曽根政権のときから今でいう構造改革みたいなのがじわじわ進んできたわけですけれども、もっともひどくなったのが、小泉政権の5年間。小泉さんというのは、人を見下すことが商売じゃないかと思うくらいさんざん格差、格差とやってきたわけですけれども、それまではさすがにそこまではだれも言ってなかったわけです。ですが、その前の段階でこの数字。ということはこの5年間でどれほどこの数字が大きくなったのか、ちょっと見当もつかない。国際機関のやることですから、実際の調査と発表時点のタイムラグが大きすぎますけれど。今やったらもしかしたらアメリカを抜いちゃってるかもしれないということなんですね。
ですから、格差問題と戦争というのは極めて相性がいい。政府が見下す対象が増えれば増えるほど戦争はしやすくなるということがいえるかな、と思います。
今の自民党や財界の人を取材して歩いていますと、そもそも「平和」ということばの使い方、定義が違ってきているような気がするんですね。今度の「新憲法草案」でも、9条の2項については全部書き直すといっています。交戦権は否定しないで、しかも自衛戦争といわれるものだけでなく、国際的に協調して行う軍事的行為はよい。アメリカがやる戦争は全部つきあってよい、といっていることと同じなんです。具体的なこと、細かいことは法律つくって決めますといっている。つまり何やったっていいよ、といっているわけですね。
ただ、その話をすると多くの人は、「でも9条1項の平和条項は残るから大丈夫じゃないか、斎藤さん心配しすぎだよ」とよく言われます。国際紛争を解決する手段として軍事力を用いない、という項。自民党の人たちを取材していくと、たしかに平和、と謳うんですが、どうも「平和」という意味が僕らと違う。僕らは普通、平和というのは戦争のない状態をさしたり、何か紛争が起こりそうなときに話し合いで解決できる、こういう状態を平和といっていると思うんですが、あの人たちはこんな考え方じゃないかと。アメリカや日本の多国籍企業が世界中で好き勝手に振る舞える状態が平和であって、それに抵抗するものは全部テロリスト。テロリストは殺していい。テロリストのいそうなところに爆弾を落とせば、当然まわりの関係ない人も巻き添えを食うけれど、これはしょうがない、平和のための活動なのでしかたがない。こう定義してしまうと、平和主義の条文が残っても、全然戦争をやる妨げにならない。こういうことだと僕は思っているわけです。
実際、日本国憲法がはたして今どの程度の意味をもっているかというと、9条2項以外は、ほとんど形骸化している。たとえばこの格差問題の中でさまざまな社会保障が、さっきの竹中さんみたいな考え方のもとに切り捨てられています。切り捨てられていくと、第25条の健康で文化的な最低限の生活を営む権利が国民にあって、国にはそれを保障する義務がある、というこの条文なんてもう、ないのとまったく変わらないわけです。社会保障が切り捨てられていくと、多くの問題が家庭に押し付けられていく。最近やたら「家族が大事だ」という話があって、そりゃあ家族は基本的に大事なんですが、それを国の側に言われるということがどういう意味があるのかというと、結局みんなで助け合わなければならない社会保障が切り捨てられて、家族が大事だといわれることは、つまり全部家族で引き受けてくださいという話です。となると、これはまた善し悪しを別にすると、今現実で家族ががんばる、その受け皿になるということは、多くの場合家庭の主婦がなる。女性が受け皿になる。ということは、憲法第24条の「両性の平等」の規定にもひっかかってくるんですね。新憲法草案は今のところ25条、24条のことを変えるとは言っていません。ですが、国民投票法案などによって憲法改正の手続きが簡単になっていけば、何度でも変えられるわけですから、近い将来そっちにも手が入っていく可能性が大いにあります。
ほかにも13条の表現の自由とか、幸福追求権だとか、そういったものがどんどん踏みにじられていっていることはご存じのとおりです。結局9条2項しか残っていないんですけれども、これも米軍再編の中では、9条2項がある方がおかしいような社会がつくられつつあります。
米軍再編では、新聞やテレビの報道だけを見ていますと、おもに沖縄の普天間基地の全面返還、グアムの海兵隊員が移転されて、その費用のかなりの部分を日本側が負担するのがいやだね、というだけで、全体としては基地負担が軽くなるような、まるでいい話みたいに伝えられている部分があります。でも普天間基地の機能がなくなるわけじゃない。本部の機能は本部に移り、あるいは名護市辺野古というところに新しい基地ができて、この基地は普天間基地より強大なんですね。ですからなんのことはない、ただ基地の強化にしかなってない。場所が普天間周辺の人にはたしかに悪くない話だけれども、違うところの人に逆に迷惑がかかるというだけのことです。
同時に、沖縄だけでない。この東京周辺でも問題が起こってくる。神奈川や東京都下の国道16号線沿いに在日米軍基地の総司令部が集中しているわけです。横田に空軍、座間に陸軍、横須賀に海軍。この3つの米軍基地の総司令部に日本の自衛隊の陸海空の総司令部が同居することになった。横須賀というのはもともと米軍横須賀基地と自衛隊の横須賀基地が隣接していますが、その横須賀基地には今度、通常型空母キティホークに代わって、原子力空母ジョージワシントンというのが配備されることになった。その戦闘能力は通常空母の何倍ということになります。横田には、府中市にある航空自衛隊の総司令部がやってきて同居する。わざわざ新しく共同運用所という建物を造って、そこに同居する。キャンプ座間には、今在日アメリカ陸軍の総司令部があるところですけれども、リトルペンタゴンという小さい建物がある。そこに自衛隊が近く新設する中央即応集団という、対テロ・ゲリラ戦部隊の総司令部がわざわざそこに同居します。自衛隊の基地ではなく、米軍基地の中に陸上自衛隊の部隊の司令部が同居する。さらに恐ろしいことに、アメリカ本国のワシントン州から、アメリカ陸軍第1軍団総司令部というのが日本にやってきて、このキャンプ座間の中に同居するんですね。
この第1軍団というのがどういう部隊かといいますと、地球上の面積の半分をカバーする恐ろしい大部隊です。北朝鮮から中国、東南アジア、太平洋地域、インド、中近東、アフリカ、これを全部カバーする。今のイラク戦争でも、アメリカ陸軍が展開している作戦は、第1軍団総司令部が最終的には指揮を執っている。その司令部が地理的に日本にきちゃうという、そういう話です。だからイラク戦争を日本で進めるということになるんですね。
もう少し考えるとさらに恐ろしいのは、アメリカ・ブッシュ政権がならず者国家といっている国々、イラクのほかにもイラン、北朝鮮、ジンバブエ、ベラルーシ、リビアといった国々、これ全部この第1軍団のテリトリーです。いずれにも共通しているのが、奇矯な独裁者がいること、それでいながら地下資源が豊富なこと。ということは、この独裁者を倒して民主化を進めてあげるという大義名分の下に、地下資源を略奪に行くという戦争がこれからも構想されていく可能性が極めて大きいということです。実際イランには核攻撃をするという話も出回っていますが、いずれアメリカは、イラクの次はイラン、北朝鮮―横田めぐみさんのご両親がブッシュに会って、お気持ちはわかるんですけれど、攻撃の大義名分を与えてくれちゃったような気もするんですけれどね。そういう形でこれから戦争を進めていくとすれば、それに全部日本の自衛隊が―だって司令部が全部一緒なんですから、その方が善し悪しは別にすれば自然ということになる。そこで唯一の歯止めになっているのが9条2項なんですね。仮にもし一緒に派遣されていっても、今の段階では、そこで戦闘行為をしてしまうと憲法9条2項違反になるからやれない。そうしたらこんなものただの足手まといですから、足手まといになる部隊をわざわざ一緒にはしません。それは、役に立たせようとするから一緒になるわけです。ということはもう、9条は残る方がおかしいという、こういうことになりかねない情勢だということです。さきほどの小池清彦さんのお話が非常に現実味をもってしまうわけです。
これは証拠があるというよりは、やや印象論というしかないんですが、たとえばこの米軍再編計画が発表されたのは5月1日のことでした。ということは、5月2日に新聞に載るわけですね。次の3日は憲法記念日です。一方、さっきのジョージワシントンの配備というのは、昨年10月28日付の新聞各紙の1面トップに載ったんです。「新憲法草案」というのは翌日29日に各紙に載りました。そして米軍再編計画の中間報告が10月30日付の新聞に載ったんです。どうして立て続けにこういうのが載り、憲法記念日の前の日にこんなものが出るのか。ここに僕は作為を感じるんですね。つまり、日本国憲法より上位にあるところの日米同盟がこれこの通り決めた、これからは日米は一蓮托生で世界中に戦争を仕掛けるんだぞ、したがって、日本国憲法なんていうものはもう意味がない。われわれ自民党がつくる新憲法草案で9条を書き直すのが当然であるという、サブリミナル(潜在意識)メッセージといいますか、国民に対する自然な形での教化、啓蒙を進めているというふうに僕は考えているんです。
<2巡目の発言>
僕自身は1958年生まれの、典型的なシラケ世代の三無主義という世代。小さいときから戦争はなくて当たり前。まさか自分が生きている間にこういう話があるとはちっとも思っていなかった。ところが最近になって、いろいろ取材してこういうことを多少言えるようになったんですが、わからないこともいっぱいあるんです。ある会合で、格差の話をしようとしたら、最初に強烈なあいさつがありました。最近、格差問題、斎藤さんいろいろ言っているけれど、それは一般の男性にも累が及んできたから言ってるんじゃないの、女性はずっと格差の下の方にいたのよ、と。ああそうだねえと、改めて思ってしまいました。
たとえば戦後民主主義とか、一億総中流とか言っていましたけれど、それは部落差別だとか、在日コリアン差別だとか、アイヌ差別だとか障害者差別だとか、沖縄なんか最初から日本国憲法ないのと一緒ですから、そういう人たちの上に乗って、ごまかしながらやってきた平等幻想にすぎないんじゃないかということを最近つくづく感じるわけです。これは多分微妙な問題でもあるので、もしかしたら反発される方もいらっしゃるかもしれないんですが、9条を守ろうと言っているわけですが、ここで考えるべきは、本当に私たちは、9条を機能させていた時代が少しでもあったんだろうかということです。
というのは、戦後民主主義の恩恵を最も僕は享受した一人だと思っていますけれども、戦後民主主義は、高度経済成長と表裏一体なわけです。ということは、もしかしたらオレが子どものとき幸福だったのは、戦争のおかげではないかとつくづく思うわけです。高度成長は朝鮮戦争の特需景気によって始まり、ベトナム戦争のベトナム特需および、朝鮮戦争における日本と同じような立場になった東南アジア諸国への日本製品の輸出、そして何よりもベトナム戦争に基地の提供や武器弾薬の兵站基地として協力した日本に対する見返りとして、アメリカが日本からの対米輸出を一時期まで無尽蔵に受け入れてくれていた、だから高度経済成長があったのであり、戦後民主主義だということができていた。つまり、僕らが暮らしていたのは、戦争のお陰であって、朝鮮やベトナムの人たちの血の上に自分たちの幸福はあったのかな、と。そういうことを考えるようになったんですね。
そう考えると、9条ってたしかにさっきの小池清彦さんじゃないけれど、自衛隊が直接戦争することはなかった、だけど戦争でもうけていたという点ではまったく一緒だったと思います。だからといって、その時代の人たちを責める気にはなれない。朝鮮戦争やベトナム戦争に協力しなければ、また原爆くらっていたかもしれないから、ただ否定するわけにはいかないけれども、しかし、そういう形で経済大国になってしまった以上、朝鮮やベトナムの人たちには申し訳ないけれど、われわれはわれわれで生きていかなければいけないわけですから、ここはしかし、今度こそ、9条の理念というものをホンモノにするために行動するべきではないのか。つまり、守ろうというだけではなくて、それを今度こそ勝ち取ろうという、さきほど、不満だらけなんだみんな、という話がありましたけれど、そのとおりだと思うんですね。ですからむしろ、「守ろう」という防戦ではなく、積極的に打って出る、こういう姿勢というのも、もしかしたら必要ではないかと思いました。
もうひとつ、先日こういう話を聞いたんです。構造改革の中で、公立の保育園が民営化されていきます。公設民営化。保育サービスの低下を怖れる保護者たちが区役所に抗議にいく、すると区役所の方はなんて言うかというと、お宅の子どもさん一人当たり何千万お金がかかってると。ある保育園のシンポジウムでそういう発言があって、参加していた保護者たちはみんな、ええっと凍り付くわけです。だけど僕はそれに参加しながら、はっきり言って甘いよね、と。障害者の人たちはみんなそういうふうに言われていたわけだし、それを何で知らなかったの、自分たちがそういう目にあって初めてわかるっていうのはちょっと甘いんじゃないの、と。失礼だけどそういう話をして。必ずしも悪意でわからないというのではなくて、言われないとわからない、ということは確かにあるので、障害のある方々が9条の会を立ち上げて、アピールしていくというのは、非常に大切なことだと思います。
世の中悪い人たちばかりではないので、わからないことをきちんと知らせてあげる必要はあると思います。一緒にがんばっていきたいと思います。ありがとうございました。