トップページ> 2008 シンポジスト・平沢保治さんの発言


平沢さん みなさん、ようこそ全生園へ訪れてくださいました。
お顔を見ておりますと、昔なつかしい顔やら、そして私が今いちばん力を入れている学校教育にかかわる人たち、若い人たちも見えられておりまして、たいへんうれしく思います。

市内では自慢するわけではございませんけれども、子どもたちには人気があります。市長には声をかけなくても私には「平沢さん」と声をかけてくれる子どもたちがたくさんおるからです。そういうことで私も81歳を越しました。

今、障全協会長の吉本(哲夫)先生とちょっと話してたんですけれど、吉本先生と出会って40数年が過ぎました。「朝日訴訟」のたたかいも含めて地域の障害者問題、精神障害者等の問題も含めまして、ハンセン病の患者・回復者であるとともに、そうした道を生きてまいりました。

ハンセン病の患者でありながらなぜ他の障害者や市民とスクラムを組んできたか、これはただひとつです。
それはこの地上に生を受けた者がだれもが幸せに生きられる社会であってほしい。
私自身世界の21か国に友人を持ち、11か国に足を踏み入れ、また昨年はニューヨークから『人生に絶望はない』という本の英訳が発刊され、47都道府県の小さな島を含めて足を踏み入れることは少ないという現状であります。

でも、私にいちばん遠いところ、それはふるさとであります。
茨城県では来年全障研の全国大会が開かれます。知事が、「平沢さん、どうしているか」と言ってくれているそうです。こう言うと、生まれはどこかってことがわかります、茨城県です。古河市という池袋から電車で50分のところであります。
このふるさとの生まれた家に67年かかって帰ることはできません。私の生まれた実家は浄土宗のお寺です。京都の本山から「平沢さん、両親の墓参りをさせてあげよう」こう言って私の菩提寺に問いかけたところ、「来てもらっては困る」と断られました。そのことを実家に伝えてもその席には来てくれませんでした。

昨年の11月、子どもたちや意識のある人たちが私のお墓参りをさせてくれました。私はそれで悩みに悩んだ末、「私の小学校の母校で講演をしたい」と県のほうに申し入れたところ、県の教育委員会や古河市の教育委員会、いろいろな人たちが是非来て欲しい、こう言って招いてくれました。

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らい予防法が廃止され12年がたちました。
ハンセン病は今から60年前に直る病気となりました。新発患者も皆無に等しい。
今全国13か所のハンセン病回復者の平均年齢は79歳。私が入院した当時は、そして障都連に加盟した当時は全生園も1000人をこしています。いまはわずか310人。今回の敬老会で88歳以上の人が20パーセント。60人を越す人たち。こうした状況に置かれています。

ハンセン病問題はそういうなかで今終焉を迎えようとしています。
でもどうしてハンセン病がそれほどまでに社会から肉親から差別を受けなければならなかったか。
徳川時代から明治の天皇制を中心とした政府。これは官僚の政府だと私は思っています。来る日も来る日もたたかいの連続でした。
日清戦争に勝ったわが国、日露戦争に勝った、富国強兵、強い国が、強い軍隊があってはじめていい国になる。
こういう考え方のもとに1銭5厘のハガキで若者を戦場へ戦場へと送り出したわけであります。

そうしたなかで祖国浄化として作られたのが今から101年前にできた「らい予防法」であります。
このらい予防法によって全国に5か所の療養所が作られ、その所長は病院でありながら警察官であったわけであります。
第一次世界大戦と同時に療養所の中には所長に権限を与えた懲戒原則規定のもとに牢獄が作られました。

また患者に労働させるためには、数少ない女性を活用するということで、結婚制度を導入したのも1914年であります。
結婚したからといって一緒に生活はできない・・・・。昭和3年に私たちの先輩が、患者が作った居住棟が残っておりますけれども、この12畳半の部屋に8人、女の人のところに「通い婚」といって夜男性たちが泊まりに来る。そして必ず当時若い未婚の女性が、夜が来るとこわい、けだものと一緒だ、地獄だ、こう言って嘆きの声をあげたのであります。

子どもを生んではいけない。女の人たちが妊娠すると、その子どもたちはアルコール漬けにして何十年間近く倉庫の中に埋もれていて、去年35体の物言えない赤ん坊が、アルコール漬けが見つかったわけです。

こうした人権侵害の施策はつねに戦争とあいまって行われているわけであります。
1930年のらい予防法の改正、満州事変の前夜、療養所が作られました。そして犬か猫でもかき集めるように、警察官と白衣を着た医師が村から村、町から町へと患者を捜し出し、借り切った列車に乗せて家を真っ白になるほど消毒する。
らい病は怖いんだ、おまえたちを守るんだ、そしてこの日本を浄化するんだ、そういう政策がとられました。

そして8人の雑居部屋には10人を入れ、8人のごはんを10人で食べる。そういうなかであの戦前、患者は立ち上がって、特高の警察に鎮圧されるというような事件も長島愛生園で起きました。また大阪にある療養所では、赤色プロレタリア同盟というものが結成し、その人たち20名あまりはゴザに巻かれて海に放り出された。でもたたかいに参加した、こういう歴史も残っています。
満州事変、そして日清事変、そういうなかで 昭和13年、1938年には草津にあの有名な監獄が作られ、多くの人たちがちょっとしたことで殺されたわけであります。

私はそういうなかで13歳で発病し14歳で入院し、軍国少年として、人間の肉以外なんでも食べて戦争に協力いたしました。
その反省の上にたって、そして新しく結核のために作った薬がハンセン病に効くといっても、国は、ハンセン病はそこで死んでもらう。療養所には監房を置き、火葬場をつくり、そしてお寺を作り、お墓があるわけであります。

そういう状況のなかで戦後、22年、新しい憲法が発布され、私たちにたたかう方向づけを示してくれました。
そういう状況の中で私は後遺症のために手足をちょっと悪くして、所内で昭和25年に結婚しました。結婚の条件としては2年前に制定された優生保護法で私は子どもも孫も持つことでできない体に、屈辱的なものを味あわされました。今もう余命もたくさんない。でも一人ぐらいは子どもが欲しい、母は「長男だから、子どもを一人産んだら私が育ててあげるから」というそういう思いも阻まれました。

ユーモアの発言に
私は子どもたちに問いかけます。お母さんたちに問いかけます。
21世紀、何が宝物か。お金でしょうか?地位でしょうか?財産でしょうか。否です。
どんな環境にあっても人間らしく生きられるようなそういう社会、そして人間をつくりだすことが何よりも財産だと私たちは子どもたちに問いかけています。

お金があればなんでもできると言った人が手錠をかけられて牢屋に入れられたじゃないかと言うと、子どもたちが大きくうなずきます。そうしたなかで日本患者同盟、あるいはいろいろな障害者団体のご指導いただいて、私は50数年間、地域とそして自らの組織に携わって微力を尽くしてきました。

そういうなかで、今、こうして施設を開放することもできるようになりました。
あと10年たったら、全生園も100人を割るかもしれない。そのときこの35万平米のこの土地、先輩たちがいのちかけて切り拓いたこの土地をどう活用するのか。

いろいろ差別は受けました。市役所に行っても私にはコップでお茶を出すけど、湯飲みでは出してくれない。障都連の会議に行って帰って来ても清瀬の駅でタクシーに乗ろうとしても下ろされました。電車にも乗せてくれない。清瀬の地域の物を買おうとしても「これは予約済み、全生園の人はお断り」そう言って差別を受けましたけれども、しかし、それは無知ゆえに起きたあやまちである。私たちはこれを責めようとはしない。二度とこういうことを起きないためにどうしたらよいか。こう思って、木を植え続けました。

資料館を私たちの手で作りあげました。お金を出し合って復元いたしました。垣根のまわりに逃亡を防ぐために、穴を掘らされたその土を10メートルに・・・・そこしか外を眺められなかったのです。

学校教育のなかでのいろいろな差別を受けましたけれども、しかしそういうことがどっからおきてくるのか、やはり、社会は平和でなければいけない。平和であること、そこに文化と人間の心がはぐくまれるというふうに私は思っています。

ハンセン病問題は医学的には終焉を迎えます。でも歴史的には大きな財産を残しております。この財産をぜひ平和の時代とともに残していってほしい。そのことが納骨堂に眠る4052人の先輩たちの願いにかなうものではないかと思います。

時間が参りましたのでこれで終わりますけれども、重ねてようこそ全生園においでくださいましたことを、入所者300名あまりを代表してお礼申し上げます。ようこそ全生園に来てくださいました。

そしてハンセン病の歴史を学んでくださいました。ありがとうという言葉を最後に結んで、私の報告を終わらせていただきます。
どうもありがとうございました。(編集部の責任でまとめました)