はじめに
20世紀最後の年を迎えました。今世紀は、障害者の人権保障が飛躍的に前進した100年でした。200年前には一部の市民階級以上の成年男性にしか認められていなかった基本的人権が、すべての男性に、女性に、子どもに、障害者に、と徐々に拡充されてきました。とりわけ第二次世界大戦後は、国連を中心とする国際的な取り組みを背景として、「障害者の権利宣言」や国際障害者年とそれにつづく行動、「障害者の機会均等に関する基準規則」の制定など具体的なかたちで障害者の権利が国際的に確認されました。
より具体的にみると、障害者の社会参加とその権利の問題があらゆる分野で注目され、実現に向かい、同時に障害の程度や種類を問わないで「すべての障害者」を対象とした権利保障の方向にすすんでいます。たとえば、教育権保障の歴史に焦点をあててみると、盲・ろう学校の義務制からすべての障害児の義務教育の保障へ、さらには後期中等教育や社会教育への権利へと拡大していることがわかります。同様のことはリハビリテーションの歴史をみても明らかです(『障害者問題研究』第27巻4号、てい談参照)。また、障害そのものに対する科学も進展してきました。生物学的な視点、その個人の能力、さらには社会生活との関係など多角的な視点で障害をとらえるという考え方は、この20年間に障害者問題全般の検討において多くの人々が採用するようになりました。80年代の初頭、こうした考え方を打ち出したWHOは、20年を経て、さらに社会・環境との関わりを重視した障害概念、すなわち障害者の積極的な社会活動を前提とした障害観を提案しようとしています。人間としての当然の生活を求める主張は、ノーマライゼーションの思想として世界の国々で着実に浸透してきたのです。
しかし、わが国の障害者と家族の現実は、世界的に到達した崇高な理念、障害と障害者についての考え方、権利保障の国際的基準とかけはなれた状況であり、日本国憲法に規定された生存権をはじめとする基本的人権も守られない状況がめだちます。十分な財源があるにもかかわらず、過去20年間に社会保障の費用の中の国庫負担を29.1%から10ポイントも引き下げられたという事実が示すような、国の社会保障への責任を限りなく縮小しようという政策が、日本の障害者の人間らしい生活の実現を阻んでいるのです。21世紀の遅くない時期にこうした現実が改善され、国際的な基準に並び、これを越える水準の人権が保障されるよう、研究と運動をいっそう強めていくことが強く求められています。今大会のテーマ「20世紀のあゆみに学び、平和・人権・発達保障の新世紀を!」は、こうした決意と展望を簡潔に言い表したものにほかなりません。
1 障害児者福祉をめぐる情勢
1)社会福祉における公的責任の放棄
『みんなのねがい』6月号に、愛知県に住む71歳の重度身体障害者・宮田鈴枝さんの介護認定とケアプランが紹介されています。そこから、介護保険制度のもとでの障害者福祉の問題点が浮かび上がってきます。@重度障害者が要介護度では軽い判定になる、A無料であったサービスが有料になるなど低所得者に負担が重い、B役所(公的機関)は責任をもってくれない、C介護認定の範囲以外のサービスを受けようとするとたいへんなお金がかかる、D認定された範囲のサービスであってもこれまでの障害者関係福祉法のレベルから下がったものである、E重度の人には民間企業は声もかけようとしない−−始まったばかりというのに、介護保険制度が障害者にとってたいへん負担を強いる、不利なものであることが明らかにされています。
保育所の原則措置制度の廃止(98年4月)、高齢者の介護保険制度の実施(2000年4月)に続き、社会福祉基礎構造改革の焦点とされて審議されてきた「社会福祉の増進のための社会事業法等の一部を改正する等の法律」(2000年6月7日公布)の内容は、介護保険にみられるような問題点を障害者福祉全般に波及させるという性格をもっています。
法改定の最大の問題点は、社会福祉を推進すべき国、地方公共団体の責務を大幅に後退させたことにあります。新法が社会福祉サービスの実施者として定めたのは「社会福祉を目的とする事業者」であって、国、地方公共団体ということばはいっさい消えてしまいました。これは憲法第25条2項の「国は社会福祉の向上に努めなければならない」という社会福祉理念に根本から反するものです。国の責務を縮小・放棄することを基本にすえて、国民の社会福祉への要求の高まりに国として対応するための恒常的なシステムを構築するということが「社会福祉基礎構造改革」とよばれる一連の「改革」だったといえましょう。それらを具体化するために、国の政策全般ですすめられている地方分権、規制緩和を柱として、社会福祉分野においても措置制度を廃止し利用契約制度に移行させ、民間企業の参入と市場原理と競争原理の導入を促してきましたが、それを今回の法改正で障害児者福祉へも持ち込んできたのです。
2)利用契約制度と民間企業の参入
公的責任の縮小の具体的なあらわれのひとつは、公的責任の骨格である措置制度を廃止して利用契約制度に移行することです。「利用契約によって利用者は自由に選べるようになる」とさかんに宣伝され、「選択」−「決定」の権利が前進したかのようにもみえます。しかし、身近な市町村に選ぶに足る障害者福祉サービスが整備されているのでしょうか。介護保険制度同様、認定されてもそこで定められたサービス費用の範囲内でしか利用できません。市町村はその支援費支給を決定するだけで、それをどう使うかは、利用者本人に任されてしまいます。市町村に社会資源が十分に整備されていない現状では、支援費を使いようがなく、その結果、福祉財源がさらに縮小される可能性さえ出てくるでしょう。サービス利用のプロセスに、行政はなんら責任を負わないのです。「利用契約制度」とは公的な責務を利用者と事業者に転嫁するものだといえるのです。
ふたつめは、民間業者の参入による市場原理、競争原理の導入にかかわる問題です。新法では、在宅サービス等の第二種社会福祉事業に営利を目的とする民間事業者の参入を認め、かつ社会福祉事業の会計方式に損益計算や減価償却等の企業会計のシステムが導入されます。これによって多様なサービスが展開され、それを消費者が選ぶなかで、競争によってよりよいものがつくられるとされています。しかし利潤第一の民間業者の盛衰によって、市町村はサービス供給量計画を確定できなくなるという問題があることは、すでに介護保険制度で指摘されています。市場原理と競争原理は必然的に不安定さと不確実さをもたらします。市場の競争で勝ち残るのは、よいものを提供している事業者ではなく、多くの利潤を生み出した事業者なのです。また、こうした市場原理、競争原理のもとでは、利潤につながりにくい重度障害者の福祉等は見向きもされなくなるでしょう。
3)着実な前進に確信をもち研究運動をすすめよう
しかし、矢継ぎ早の福祉切り捨ての中にあっても、冒頭で述べた方向での障害者の権利保障が、日本においても着実に広がりつつあることにも目を向ける必要があります。新たな成年後見制度による民法改正がなされたことや交通バリアフリー法の成立、障害を理由とする欠格条項の見直しが関係省庁において本格的にすすめられていることなどは、障害者の要求に根ざした障害者運動の団結の力が発揮されれば、障害者の権利を着実に前進させることができるということを示しています。
2 障害児教育をめぐる情勢
1)公教育をめぐる政策の動向
教育の分野でも「社会福祉基礎構造改革」に匹敵する規模の「改革」の動きが強められています。「基礎構造改革」が憲法25条などにもとづく「権利としての社会福祉」への根底的な挑戦であるのと同様に、今日の「教育改革」論は憲法・教育基本法にもとづく「権利としての教育」を根底からくつがえそうとするものであり、その動向に格別の注意を払い、それに対峙する幅広い協同をつくりだすことが求められています。
今日の「教育改革」論は、一方では相次ぐ青少年の事件などを、他方では「学力低下」論の流行などを契機としながら、そうしたかたちであらわれる教育の危機的状況を、子ども・青年の人間的発達を保障する方向で打開するのではなく、公的責任にもとづく「権利としての教育」の縮小=「学校教育のスリム化」と、21世紀の日本の国際競争力を担う人材の効率的な育成へと流し込もうとするものです。森首相の「日本は天皇を中心とする神の国」という発言も、発言自体の反憲法的内容とともに、それが今日の子育て・教育の問題と関わってなされたということに注意する必要があります。首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」は、今日の子ども・青年の発達と学校教育をめぐる深刻な問題に応えるかのように装っていますが、その審議事項などを見ると、一方では「特色ある学校づくり」や「社会の変化に対応する教育」、「国際的競争力のある大学づくり」など、競争的・選別的な環境の下で財界が求める人材の育成を企図しつつ、他方では「社会奉仕活動」や「宗教教育」を強調し、「愛校心、愛郷心、愛国心」というイデオロギーで国民意識の統合をはかるという構図がはっきり見てとれます。森首相は「神の国」発言に関する記者会見のなかで、中曽根内閣下の臨教審にさえいろいろな「制約」があったと述べ、「国民会議」では、そうした「制約」をすべてはずした議論を期待する旨述べているのです。
そこでうちだされる「教育改革」は、わが国の教育をどのような方向に導こうとするのでしょうか。ここでは、本年1月に報告書を提出した「21世紀日本の構想懇談会」(小渕前首相の私的諮問機関)における「教育改革」構想に注意を促しておきたいと思います。
この報告は、支配層の立場から、わが国の21世紀戦略をそれなりに率直に論じたものと見られます。学校教育について同報告は、今後10年ほどの間に教科内容を5分の3程度まで圧縮し、「義務教育週三日制」をめざすという提言をしていますが、より注意するべきは、その基礎をなす教育観です。報告は、教育を、国家が国民に対して一定限度の共通の知識や認識能力をもつことを要求する「義務としての教育」と、国民が多様な生き方と自己実現を追求する方途としての「サービスとしての教育」とに二分した上で、前者については、国家の「統治行為」として「厳正かつ強力に」行い、後者については、その提供を「市場の役割」にゆだねつつ、「サービスとしての行政にふさわしい程度の財政的支援」を行うというのです。
教育を、国民にとっての「義務」と「サービス」に二分するという発想は、教育を子ども・国民の権利としてとらえる教育観を意図的に排除するものです。日本企業の国際競争力を担う「基礎・基本」の学力形成と「愛国心」などを柱とする「規範意識」の教育を「義務」としての三日間に圧縮し、それ以外の部分については個人の自己実現のための「サービス」だとして公的責任を投げ捨てる、ここには憲法26条に規定された「国民の権利としての教育」の思想はみじんもありません。
これでは子ども・青年の教育を受ける権利、人間としてゆたかに発達していく権利は守られません。先頃提出された「教職員配置の在り方等に関する調査研究協力者会議」の報告が、国民の切実なねがいに背をむけ、学級規模の縮小を提言しなかったこと、あわせて、非常勤講師の活用など学校における不安定雇用層を増大させ、同時に教員配置に関わる責任を地方自治体に転嫁したことなども、「行財政改革」の名の下での「小さな政府」論の具体的あらわれにほかなりません。
「教育改革国民会議」は、この夏にも中間報告を提出し、来春には最終報告をまとめる日程だと伝えられます。教育基本法「見直し」に象徴される「国民会議」の教育改革は、公教育に対する上述のような考え方を背景として打ち出されてくるものであることを認識し、発達の必要に応じた適切な教育を受ける国民の権利を譲り渡さないための幅広い運動をつくり出すことが緊急の課題になっています。
2)障害児教育をめぐる情勢
障害をもつ子どもの学校教育も、上述のような「教育改革」の動向のなかに位置づけてとらえる必要があります。その際に、とりわけ注意すべき問題の一つは、障害、あるいはより広く特別な教育的ニーズをもつ子どもの学校教育の制度をめぐる問題であると思われます。
文部省は、今年度「21世紀の特殊教育の在り方に関する調査研究」に着手しました。大蔵省に提出された上記調査研究の予算要求書は、第一に障害の重度化・多様化、軽度児への対応や早期からの教育的対応、高等部進学率の上昇、卒業後の進路の多様化など、先の学習指導要領改訂の際と同様の現状認識を述べ、第二に欧米等における「インクルージョン」の動向に言及し、第三に「特色ある学校づくり」と「地方分権」などを提起した1998年の中教審答申に触れながら、「就学指導の見直しや盲・聾・養護学校の在り方」を特記するかたちで「今後の特殊教育の在り方についての検討」をするとしています。こうした課題を受けて設置された調査研究協力者会議の具体的な審議内容は今のところ明らかではありませんが、これと呼応するように、民間から複数の障害児教育制度の改革案が提起されており、その中には、障害児教育諸学校の機能の大幅な縮小や全面廃止などを提案するものもあることに注目しておかなければなりません。
こうした論調は、さまざまな不十分さや制度的な制約をはらむ、今日の就学指導や障害児教育諸学校の状況を固定視した上で、それらをいっきょに投げ捨てようとする暴論にほかなりませんが、教育や福祉への財政負担を極力圧縮しようとする今日の政策動向の中では、障害児教育の財政を削減するための格好の隠れ蓑とされるおそれが多分にあります。きわめて貧しい条件の下で、さまざまな制約をもたされている今日の就学指導や障害児教育諸学校の状況を民主的に改良していく展望を具体的に明らかにし、障害によるものをはじめさまざまな要因で特別なニーズをもつすべての子どもに、ゆたかな教育を保障していく制度改革の展望を明らかにしていく必要があります。
その際、わが国の障害児教育においては、きわめて大きな地域格差があることに留意しなければなりません。障害児学級や通級指導教室の開設状況、障害児教育諸学校の学校規模、就学指導・就学相談や教育相談の実状等において、都道府県や自治体によって、小さくない差異が存在しているのです。この傾向は養護学校義務制以降今日に至るまで、改善の方途が示されないまま推移してきました。
こうした状況は、今大会の開催地兵庫でとりくまれた全障研研究プロジェクト「養護学校義務制20年の検証」によっても、県内の各地域にそくして具体的に明らかにされてきています。こうした成果にも学び、同様のとりくみを各地に広げることによって、すべての子どもにゆたかな教育を保障していくための制度充実の課題を、地域の条件にそくして具体的に明らかにしていくことが求められています。それは、憲法の保障する地方自治の発展の条件となる民主的な統治能力を私たち自身が鍛えあっていくことにもつながる取り組みです。
制度改革の問題とならんで、教育内容・教育課程に関わる問題にも注意を払う必要があります。今年2000年度は、新しい学習指導要領への移行措置の一年目にあたります。改訂された盲・聾・養護学校学習指導要領がはらむ問題について、昨年度の基調報告は、「自立活動」が、社会的不利のレベルでの障害の軽減の課題を曖昧にし、障害の軽減を個人の努力のみにゆだねてしまう危険があること、「個別の指導計画」作成の義務づけが、個別指導偏重による教育指導の一面化と教職員の管理統制強化をもたらしかねないこと、職業教育のいっそうの偏重によって、中・高等部の教育が狭くて一面的な職業訓練に矮小化される傾向がすすむことなどの問題点を指摘しつつ、その批判的検討とそれをのりこえる実践の創造を提起しました。
その後一年間の経過の中で、たとえば「総合的な学習の時間」については、指導要領の「例示」をのりこえる「総合学習」のゆたかな実践も多く生み出されてきていますが、同時に、「時間」新設の強要によって混乱をもたらされた小・中学校も少なくありません。移行期間であるにもかかわらず、子どもたちの実態と教育の課題についての論議をふまえずに、「時間」の新設だけを急ぐならば、それは子どもたちの課題と要求に応えるものにはなり得ないでしょう。
「個別の指導計画」については、その作成の強要が、教師の自主的な授業づくりや教育課程編成のとりくみを教育行政や管理職が統制する手法として用いられる傾向がいくつかの自治体でますます顕著にあらわれてきています。その際、「わが子にあった適切な教育を」と願う保護者などを巧みに組織しつつ、「アカウンタビリティ(説明責任)」などの言説を用いて「個別指導計画」を職場に押しつけ、保護者と教職員の間に分裂を持ちこもうとする傾向も見られます。
こうした事実からはっきりとわかることは、仮に新しい学習指導要領が部分的に正しかったり、まじめに検討すべき部分を含んでいたとしても、それが個々の教育現場に「押しつけ」られる過程では、学校現場はそれへの形式的な「対応」に追われることになり、今日の複雑な社会状況の中でさまざまな問題を抱えることになりかねません。校長の権限を強化し、職員会議を校長の「補助機関」と規定した学校教育法施行規則の一部改正や、東京都における教員に対する人事考課(新たな勤務評定)の導入などは、教職員の自由を奪い、そのことによって上のような状況に拍車をかけようとするものにほかなりません。
こうした状況の下だからこそ、私たちは、自分たちの目の前の子どもの実態や保護者の要求から出発して教育の課題をあらためて吟味すること、それに応える教育実践を教職員集団のねばり強い協同にもとづいて創造していくこと、そこで生み出された成果をさらに広い集団の中で交流し深めていくことなど、ある意味でオーソドックスな教育実践研究のとりくみを、いっそう確実に意識的にすすめていかなければなりません。そして、こうしたとりくみと結びついてこそ、すぐれた教育実践を支え、条件づける教育条件や教育制度の問題も、本当にそれにふさわしいかたちで解明しうるように思われます。
3 当面する研究運動の課題
全障研の研究運動は、障害をもつ人々のおかれている実態や自らの実践から学ぶことを大切にしています。私たちは、具体的な願い悩みを掘り起こし、それを社会のしくみや矛盾との関連で分析し、権利としての要求に高めていく道すじを探ってきました。また、障害をもつ人々の発達の事実に学びながら、自分たちの実践をより良いものにしていく道すじを確かめ合ってきました。発達保障の理念のもとに進めてきた30年余りの研究運動の歴史が、今、多くの共感を広げつつあるのです。
1989年の第23回全国大会に続いて今大会の開催を引き受けた兵庫支部は、この10年余の間に会員をふやし、大きな支部に成長してきました。その間に、養護学校高等部全入運動、障害の重い子どもたちの教育条件を改善するための運動、乳幼児期の通園施設づくりの運動などを、要求の根拠を示す実態調査や事例研究など、研究運動を通じて支えてきました。そして、要求を練り上げ、政策をつくり、運動を進めていく道すじにおいて、働く人々や保護者の学習要求をていねいに実現してきました。その共同の力が、阪神淡路大震災のもとでの障害者の生活の実態や願いを明らかにしようとする実態調査に結実したのです。困難ななかにあっても人々の共同が生まれ、県内ではじめて精神障害者の働く場と生活支援の施設がつくられるなど、現実を切り拓く力がうまれてくる事実を、この大会に集うみなさんと確かめあいたいと思います。
1)障害者と家族の実態を明らかにし要求の掘り起こしを
−−障害者プラン後半期、社会福祉基礎構造改革の一部施行の年にあたって
総理府は昨年12月に障害者プランの到達状況を項目ごとに発表しました。数値目標をかかげた分だけ「着実に前進」した面はあるのですが、「プラン」の見直し、市町村による数値目標を含んだ計画づくりなど、遅れた部分を強力に改善しようという方針は出されませんでした。たとえば療育等支援事業、デイサービス事業などは、厚生省も認めざるをえない計画未達成があるばかりでなく、設置に自治体ごとの格差が甚だしく、設置されてもそのとりくみが地域の要求に適うものになっていない実態も報告されています。障害児・者と家族の人間らしい生活を可能にする基盤整備はまだ遅れています。障害児の放課後生活をゆたかにするための学童保育の場づくりとその制度的保障、レスパイト制度の充実、障害の重い人たちの通所施設制度の創設、無年金障害者の解消と所得保障の抜本的充実、などは、「プラン」の補充項目にもされず、整備の目標にすらされていません。社会福祉事業法改定で行われた無認可小規模作業所の法内移行も、関係者が要望する十分な基盤に立つをものにできるかどうか、今後の展開にかかっています。
このようなときにあって、たとえば自治体ごとの「障害者プラン」の内実と達成水準を明らかにすること、人口30万人相当で設定されているはずの「障害保健福祉圏域」や市町村ごとの実態をつぶさに把握することなど、総合的な実態把握が求められます。すでに全障研の「研究プロジェクト」の一環として、名古屋市の障害児学童の生活実態調査、全国の障害児学童クラブの実態調査などが取り組まれています。また全国的に取り組む障害乳幼児施策実態調査は、障害の早期発見から就学までに関する地域のシステムを検討する機会ともなるものです。これらを手がかりにしながら、それぞれの地域で、身のまわりの障害児者の生活、保育、教育等に関する実態を把握する調査へと具体化していきましょう。
その際、調査が制度実態や政策を学ぶ機会になり、学習することが、地域の実態を深く見つめることにつながる学習運動にしたいものです。
2)発達保障の理念をさらに深め、実践のなかに生かそう
私たちは全障研結成の当初から発達保障の理念を大切にして研究運動を発展させてきました。日々の実践の中では、障害とそれに伴う困難の軽減と結合して、障害児・者が諸能力と人格を限りなくゆたかに発達させる実践のあり方を深める努力を重ねてきました。そこでは、ただ単に、できないことができるようになること、できることの数が増えることだけに価値をおくのではなく、何かができるようになる過程で、他者とどのように関係を結びそれを豊かにしたか、生きる力を高めることも含めて、それまでの自我(人格)をどうつくりかえ新しい自我(人格)をどう形成したかも同時に問うことが追求されてきました。
今日、たとえば新学習指導要領の押しつけなど、さまざまな強制と制約の中で実践をすすめるという現実の中で、上記の視点で実践を深め、理論の発展をめざすことがますます重要になっています。具体的には、特に@集団との相互交渉のなかでの能力や人格の発達の過程を、実践によりながら明らかにしていく課題、A発達とは何かを常に問い、知識や技能、種々の行動の能力の獲得が、個々人に内在する発達要求とどう結びついていたか、その獲得過程で自己肯定感の形成など人格の発達がどうすすんだか、あらたな発達要求がどう発生したかなどのことに目を向けて実践を吟味する課題、B障害を固定的に見て、その軽減・克服へのはたらきかけを軽視するさまざまな傾向への実践的理論的批判などが課題となります。
たとえば「個別の指導計画」にもとづく実践を検討する場合を考えてみましょう。障害をもつ子どもたちの一人ひとりの課題の把握や個別的な指導の具体化は必要なことであり、多くの保護者もそれを望んでいます。しかし、現実に展開されはじめている「個別の指導計画」にもとづく実践の中には、生活や職業的自立のための目にみえる技能のスキルアップや量的な拡大を目標に、スモールステップの段階化で構成されているものがあり、そこでは子ども自身が、主体的に考えながら生活し自立していくための基本になる発達の力にはたらきかける指導、集団のなかで育ち合い人格を形成するための指導、自然や文化からたくさんのことを学んで内面を豊かにしていくための教材づくりが、軽視される傾向が顕著に見られます。
このような検討をすすめるにあたって、会員だけでなく幅広い人々と、実践の検討をする機会をもつことが大切になります。そのさい、事実にもとづく誠実な討論をすすめ、必要な相互批判を行い、より多くの人々が発達保障の理念を理解し、とりくんでいけるようにしていく必要があります。そこで働く人々や保護者に胸襟を開いて語りかけ、それぞれの実践やその背景を尊重しながら語り合う場をつくることが、今、求められているのです。職場や地域でのサークルを主な活動形態としている全障研運動の真価が、いよいよ問われることになるでしょう。
3)長い人生を見通して、それぞれのライフステージにおける発達保障の課題と
地域の発達保障のシステムの創造を
来年度全国大会が開催される鹿児島県の「麦の芽福祉会」のとりくみのように、乳幼児期から青年・成人期までの通園事業、学童保育、作業所など、ライフサイクルを見通した施設建設の運動や実践がみられるようになりました。そのなかで全障研に参加している教師・保育者・指導員、保護者、研究者の役割などは大きいものがあります。また大阪における脳性マヒの人々の二次障害の実態調査、全国大会での自閉症のライフサイクルを見通す分科会の継続など、障害の経年的変化を医療・リハビリテーション、教育、生活の実際との関連で検討したり、人格発達の課題を生活年齢、ライフステージごとに検討していくなど、障害をもつ人たちとの長いかかわりのなかで見えてきている事実を、研究的にまとめる作業が行われるようになりました。
地域の全障研サークルでは、ある一人の青年の事例を、作業所の指導員、かつて関わった通園施設の保育者や養護学校の教師が報告し、それぞれの段階での指導を反省的に検討しながら、次に続く子どもたちにそれを生かしていこうとする試みも行われはじめています。さまざまな職場ではたらく人たち、そして障害者本人、保護者も参加できる全障研の研究運動ならではのとりくみといえます。こういったとりくみは、子どもの将来への不安をもつ若い保護者に対して、確かな見通しを提供する場にもなることでしょう。
4)支部とサークルが全障研運動の主人公!
地域における政策形成のための共同の発展を
すでに情勢で述べてきたように、社会福祉分野でも教育の分野でも共通した「政策」が貫かれています。地方分権の名のもとに、国としての責任を回避し、財政的責任を放棄する政策は、これまで以上に自治体間の格差を生むことになることが予想されます。
措置制度の解体や、教育の分野における表面的な「自立性」の尊重の動きは、国民の選択肢を拡大し、自由な競争によって、サービスの内容を拡大し向上させてくれるのではないかという期待を集めていることも事実です。しかし、障害をもつ人たちとその家族がもつ悩みや要求は、解決されていくでしょうか。一つひとつの困難の根っこを探っていくと、国の責任を放棄したうえでの自由な競争では、私たちの願いを実現することができないという根本的な問題が見えてくるはずです。そんな規制緩和の名のもとで企図されている「小さな政府」(国の責任の大幅縮小・放棄)への狙いを具体的に明らかにしていくことは、私たちの研究運動の大きな課題です。
同時に、「地方分権」が論議される中にあって、憲法の理念にもとづく地方自治に精神を生かして、身近な市町村における教育や福祉のあり方を真剣に討論することも大切な課題です。現実に地域のなかにある権利の制限、不合理な格差、重大なサービスの制限については、私たちの手で実態を明らかにし、それを改善していく具体的な取り組みが求められます。たとえば、全障研大分支部は、障害者の生活と権利を守る大分県連絡協議会などとともに、県下の圏域ごとに実態を調査し、社会福祉や障害児教育に関するさまざまな領域での要求を政策としてまとめ、大分県へ要望として提出する運動を支えています。地方分権の名のもとで進められている地方への権限委譲は、自治体の行財政的基盤や政策能力を問うことになり、その政策に私たちが運動を通じて関わる可能性を広げることになるでしょう。また、過去30年間の運動で勝ちとってきた自治体独自の施策が、ここ1年あまりの間に軒並み削られようとしていることにたいして、障害者と家族の生活実態と要求に基づいた運動を、障全協や共作連など幅広い人々とすすめていく必要があります。ここにも、自治体に即した運動の大切さがあります。こうした活動を通じて、私たち自身が政策立案能力、統治能力を高めていくことになるのではないでしょうか。
参加者のみなさん、手をつなぎあって一歩前に進みましょう。機関誌「みんなのねがい」や「障害者問題研究」をお読みくださり、また全障研の会員となって、研究運動の輪のなかに参加してくださることを、心から訴えます。