95/02/05 22:45:14
◆神戸中央区・障害者支援センター
転校生2万人越す
小学校 17087名
中学校 2349名
盲学校など 29名
というような見出しと記事を2月3日の朝刊は文部省2日午前10時調べ、と報道してる。
西へ向かう新幹線の中での斜め読みの朝日新聞だ。
「盲学校など」の「など」が気になる。
学校教育法で定めている学校は「盲学校、ろう学校または養護学校」だ。
「など」が示すのはなにか?
東灘区の友生養護学校での「仮入学園」者は5名と前夜パソコン通信で報告があった。
では、「など」は特殊諸学校全部なのか、、、
障害児は、障害者はその家族は、この大震災のなかでどうしているのだろうか。
関ヶ原は雪。
京都から徐行運転の新幹線は、7分遅れで新大阪に着いた。
カレーライスをかきこみ、ウーロン茶を1缶買ってリュックに詰め、在来線にのりかえる。
「芦屋」までは電車が走る。
12時26分、塚本駅をすぎるころになると、民家の屋根に青いビニールシートが目立ちはじめた。
瓦がとんでいるのだ。
芦屋の駅は、まるで臨時駅のようで、映画でみた戦争直後ような雑踏だ。
5分ほど歩いた住宅街のなかで200名ほどの長い行列があった。
つぶれたアパートや斜めになった郵便局がある。
そこから代替えの三宮までの各駅停車の国鉄バスが出る。
30分後にバスに乗れた。
一番後から2番目に座ると、後の席にどやどやと座った2人組がいた。
同僚のマルオが目をまるくしているので、後を見ると、
鈴木清覚共同作業所全国連絡会運営委員長(名古屋・ゆたか福祉会)と
藤井克徳共作連事務局長(東京)の2人だった。
なんという偶然!!
聞けば、現地の障害者支援センター責任者の亀井勝(東大阪市・ひびき作業所長)さんも
前の方の席に座っているという。
昨日、共作連は支援活動に関する緊急対策会議を大阪で持ち、
午前中は西宮の作業所を訪問していたとのこと。
バスの窓から見える、東灘区、灘区の惨状はすさまじく
、ペシャンコになっている住宅、ヒビがはいっているビルなどなど
それは現実なのだが、まるで映画の中のシーンのように映る。
障害者支援センターは、兵庫県福祉センター内の県社協におかれていた。
中央区の東の外れ、最寄りのバス停の「王子公園」は灘区の西に属する。
ちなみに王子公園の動物園の猛獣塔は特別に頑丈につくられているのだそうだ。
亀井さんは、地震の翌日大阪の何人かの施設長と現地に入り、
その惨状のなかで、おなじ共同作業所の仲間たちをたすけたいと奮闘し、
現地センターの開設が決まってから数日は、余震のなかでも寝袋一つでセンターに泊まり込んだ。
支援センターはそうした共作連の熱い思いのメンバーと全国社会福祉協議会が連携し、
小規模作業所や授産施設の利用者、家族の被災状況確認などを
行政機関の機能が停止している中で、急遽運営している民間機関だ。
問い合わせは多様だ。
「松葉杖が1本どこかへいってしまった」「夜が眠れない」
そのひとつひとつの問い合わせに、
1000を越える避難所や地域の障害者たちの状況を足でつかむ一方で、
自転車やバイクや車で駆けつけている。
わたしたちが訪問している間でも、
一人のおばあさんがやってきて、
ボランティアに「なにか食べるものはないか、、」「腰が痛くてしょうがない」
と問いかけている。
普通のあばあさんとの対応にボランティアが一瞬とまどっていると、
亀井さんがすばやく、ラーメンやパンなどをおばあさんに手渡し、
「寒いの、、腰が痛いの、、」とことばをかけながら、
「カイロはどこにおいてあったっけ?カイロは!!」
いまの共同作業所の運営に一人たりとも手の空くような体制はない。
亀井さんのひびき作業所や、
毎日、現地や大阪の対策本部に職員を派遣している関西のさまざまな作業所もおなじことだ。
でも、阪神地方に同じ共同作業所の仲間が被災しこまっている。
20数名がいのちをも失った。
行政がやらないなら、俺たちでまずはじめよう。
なによりも仲間の発達の姿が、地域を変え、行政を変える。
働く中でたくましく!その共同作業所運動の原点が、
神戸の障害者支援センターに脈々と息づいている感じがした。
しかし、障害者支援センターでは、すべての避難所をまわり、電話可能なところは電話をし、
訪問できるところは必死でしているが、市内在住の障害者の行き先は、まだ全貌をつかめていない。
京都の女性役員の池添素常任委員と、
偶然そこでお会いした都市問題や市民運動の権威の井上吉郎さん
そして自分にできることは亡くなった方にお経をとなえることだとやってきたいた
綾部の作業所職員の渡辺さんとわたしとマルオの5人で、
中央区の西の外れの兵庫障害者連絡協議会の事務所めざして、
瓦礫の撤収作業で猛烈なほこりの舞う神戸の中心地に歩き始めた。