93/07/05 22:53:55 NGI00001 二次障害の彼と
彼は、北信越の学生の間ではちょっとした有名人で、
学園祭などの硬派ものの企画などでは、よく顔をみせていた。
わたしが彼と出会ったのは、そんな学園祭の企画で、
たしか障害者の自立についてのようなテーマの学習会で、
脳性まひの彼が講演していた。
言語障害がきつい彼のしゃべりではあらかじめプリントされたレジメがないと
よく聞き取れなかったようにおもう。
養護学校義務制が実現したころである。
話しの内容は、いまはまったくおぼえていない。
その講演会の前日に、新潟から金沢駅に彼を迎え、
後輩のアパートに彼に宿泊してもらい、
後輩は別のところに泊まらせ、わたしが一夜の担当で、
片足しか自由には動かせない彼に、
なんだかわからないゴッタにのチャーハンをつくっり、
彼から「うまいよ」といわれたことを、奇妙にはっきりと覚えている
それから15年。
数年前に東京ドームで野球がみたいと彼が上京したとき、
上野駅ちかくのお好み焼き屋に車椅子で乗り込み、
いっしょにお好み焼きを食べたぐらいで、ごぶさたしていたが、
この間、久しぶりに電話をもらった。
彼のお母さん、彼自身が43歳だから、お母さんは76歳。
耳が遠くなった母と二人、雪深い新潟で暮らしてきた。
その母が糖尿病で、入院治療が必要となった。
彼は、これまで、歯の治療で全身麻酔をしてから、
自力で歩行していたのが困難になってはいたけれど健康だ。
でも、介助してくれる母親がいなくなっては日常生活ができなくなるので、
しかたなく、いっしょにとりあえず入院した。
ひと月たち、母親が退院できるころになると、
今度は彼の体の自由がまったくきかなくなってしまった。
それから、2か月、3か月、入院はつづく。
その後、退院して自宅ですごすが、また4か月後再度入院、そしてまた3か月、、、
かれこれ1年近くそんな状態だった、いまはまた自宅に帰っている。
「もう自分では動けなくなった。いざることができないよ、、」
と彼は電話の向こうでいっていた。
彼の夢は新潟で全障研大会をやること。
その夢の新潟大会が7月末にあるというので、
そんな自分のことをレポートに書いているという。
自分の町での福祉タクシー実現のとりくみを中心にしながら、
障害者としての自分が生きてきたことの誇り、
しかし、障害をもつがゆえの不自由、そして二次障害へのやりきれないおもい。
社会的不利としての行政への強い要望。
書きたいことはいっぱいある。
でも、以前は片足の指1本で打てたワープロも、
二次障害の関係で指先の感覚がなくなってきていて
なんとかボランティアにタイプしてもらったという。
でも、当日は病院のMSWなどがボランティアしてくれて、
新潟大会には参加できるという。
そんな彼を今日、見舞ってきた。
延々と緑の水田がつづく信濃川の分水のそばに、彼の家があった。
ベットとテレビがおかれている6畳間ほどの部屋に寝ている彼は、
白い顔をして、「おう」とむかえてくれた。
彼はわたしのいた3時間、しゃべりつづけた。
彼が誇りと生きがいをもちながら、在宅で生きていくためにはなにが必要か。
そんなことをぼんやり考えていたら、
「いまはよごれちまった、家の前にある川では、小さいころはおれ3度も落ちたんだ」
と彼は笑っていっていた。
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