いつものように、家族三人で川の字になって寝ていた。
その前の日、ちょこっと地震があったけど気にもとめていない。
寝てたら体がバウンドして揺れまくっている。
そして、なんか重いと思ったら、お父さんが上に乗って守ってくれていた。
私は「何これーっ!」と叫びながら布団にもぐっていた。
「この世の終わり? みんなどうしているのかな…。死にたくない、助けてー!」
と必死で心のなかで叫んでた。
地震がおさまってふと思った。
「お父さんがいて良かった。お父さん私をかばってくれたなぁ…」と。
私にとっては新しいお父さんがそうしてくれたっていうのが、言わないけれどうれしかった。
それはきっと、お母さんも思っていたんだと思う。
地震は怖かったし、困ったこともいっぱいあったけどその分、いろんな人に助けてもらった気がする。
―略―
この地震で「人の心」みたいなものが分かったように思える。
新しいお父さんとは、今までもうまくやってきたけど、私を守ってくれた時、
「本当に私のこと思っててくれたんだ…」なんて、
胸がグッとして、今まで以上に好きになったって感じ。
こんなことは恥ずかしくて直接言えないけど。
神戸市立盲学校専攻科1年の作文から
1995年は、戦後50年の節目の年として、
日本がアジアや世界へ、戦争加害の責任をどのように明らかにするかが注目されて幕が開きました。
しかし、私たちが新年早々直面したできごとは、
1月17日未明の数十秒間、マグニチュード7.2との遭遇でした。
あの阪神・淡路大震災から1年その体験を、
どのようにこれからの社会に生かしていくのかが、今、問われています。
本書は全国障害者問題研究会などが行なってきた阪神・淡路大震災に関する3つの活動を中心にまとめたものです。
その一つは全国障害者問題研究会機関誌『みんなのねがい』誌上の「報告・阪神大震災」連載(1995年4月号〜9月号)です。
同誌では緊急に企画を組み、半年間さまざまな角度から手記や報告を掲載しました。
二つ目は、10月22日に神戸で実態調査委員会が開催した「ワークショップ」での発言です。
ここでは、震災から10ヵ月という時間を経て、本来は災害に備えて整備されていなければならなかったことにがらを明らかにする方向で、障害をもつ方々や専門家の方々に意見を発表していただきました。
そして実態調査活動の最終報告です。
調査活動の中心は全障研兵庫支部のみなさんがになってくださいました。
避難所になっている学校の仕事やレスパイトケアのボランティアなどで忙しいさなかにもかかわらず、多くの時間をさいてくださいました。
そして、近畿各地から社会調査や建築、障害者問題の専門家や研究者が何度も神戸に足を運びました。
さらに力強い協力者として、学生、院生、専攻科(兵庫教育大学、滋賀大学、立命館大学、奈良教育大学、大阪千代田短期大学など)の約30人の若いエネルギーが活躍しました。
はじめに 藤本文朗(滋賀大学教授・全障研副委員長)
そのとき養護学校では 河南 勝(阪神養護学校)
肢体障害者 大原政江さん
重度障害者の母 千速修子さん
聴覚障害者 高木茂さん
視覚障害者 池田 勇さん
「人間っていいな」レスパイト・ケアが結んだ連帯 山田優一郎(こやの里養護学校)
共同作業所職員 光岡留美子さん
手記 知的障害者の妹と 井上愛子
手記 障害者の家庭訪問にとりくんで 柳田陽子
地域の中で施設のはたした役割 熊谷俊良
政治は冷たくないか! 障害者団体の支援活動 黒津右次+井上義治(兵庫障害者協議会)
あの日の神戸から 薗部英夫(全障研全国事務局)
提言1 住宅は人権 早川和男(神戸大学名誉教授)
提言2 二次災害は減らせた 医療現場から 大西和雄(東神戸病院医師)
提言3 自治体労働者にこそマンパワーを 児堀明美(ケースワーカー)
提言4 地域の中の学校の役割 渡辺 譲(神戸市立盲学校教諭)
1 基調報告
2 なぜ死ななければならなかったのか 死亡事例報告
就学前乳幼児の死亡事例
視覚障害者の死亡事例
聴覚障害者の死亡事例
3 震災ど真ん中の障害者・家族
阪神・淡路大震災と障害を持った子どもたち
成人アンケート調査から
編集を終えて 震災は終わっていない 池添素(全障研京都支部長)
カバー絵 柳田洋(全障研兵庫支部長 神戸市内小学校教諭)