連載13回<もう一つの「発達のなかの煌めき」> 第Ⅱ部第1回

もう一つの「発達のなかの煌(きら)めき」
第13回(第Ⅱ部第1回) 糸賀一雄に学ぶ



はじめに

 連載も第Ⅱ部に入りました。昨年度の第Ⅰ部では、発達の道すじにそって障害のある子ども・人びとの生きる姿をたどってきました。この「もう一つ」も、発達の道すじについて、読者のみなさんと共有したり議論したりができることを、ねらいの一つにおいて書いてきました。今年度4月号からの「第Ⅱ部 発達的共感が創り出す実践」では、より実践にシフトさせながら連載を進めていきますが、この「もう一つ」では、連載をお読みいただくにあたって、連載でとりあげたことの背景や、連載では書ききれなかったことをお伝えしていきます。引きつづき、連載とあわせてお読みくだされば幸いです。

 第1回(4月号)では、まずは第Ⅱ部のタイトルにもある“発達的共感”について考えたいと、糸賀一雄を取り上げました。さっそく、品川文雄さん(元全障研全国委員長)から、以下のようなご感想をいただきました。このように『みんなのねがい』が、みなさんの人生と重なり、さまざまなところで、実践の討議や共感となって拡がっていくことを、私たちはうれしく思います。

 糸賀たちが「浮浪児」と知的障害の子どもたち両方を近江学園で受けとめたことは、発達論を考える上でも、教育のあり方を考える上でも重要なことであると4月号を読んで、考えました。

 両方の子どもたちを受けとめたからこそ、「共通の発達観と、その発達の道すじに障害を位置づけてとらえる障害観が、『共感の世界』の根底に位置づくようになっていた」のでしょう。ここは大変重要な問題提起であると思います。

 障害はないが、「戦争孤児」たちは強烈な「人間への不信感」と丁寧に育てられなかったため「いびつな育ち」をしていたと思います。最近読んだ「戦争孤児」を描いた児童文学では、隣に寝ていた仲間の戦争孤児が翌朝には亡くなっていたことがいくつも書かれていました。明日の死と向き合いつつ、今日をとにかく何が何でも生きる、苛烈な日々、人生だったと思います。そんな「浮浪児」たちを受けとめることは、受けとめる側が深い人間観と指導観を持たなくては、なしえないだろうと思います。そのために糸賀をはじめ職員たちは深く学習し互いの古い人間観・発達観をそぎ落とし新たな人間観を作り上げていったのだと思います。

 1972年私が教員になってはじめて担当した中学生たちも家庭はありましたが、どの家庭も過酷でした。それまでの私の人生では経験したことのない厳しさ、悲しさ、辛さを生徒たちは抱えていました。どう指導するか悩み悩み、読んで学んだ本、いやすがりつくように読んで学んだ本はクルプスカヤ(旧ソ連の教育学者、『国民教育と民主主義』など)の著作でした。どんなに熱心に教育しても裏切られ反発される日々のなかでクルプスカヤの著作は光明でした。4月号を読んでいると、そんなことまで思い出しました。「人間が生きていく上になくてはならない共感の世界」を我が学級にも作り出さなくてはならない、そんな思いで苦しみながら努力したことを思い出しました。

 障害のある児童生徒への教育・保育を行う私たちはどうしても障害の大変さ、発達の遅れを見てしまいがちです。でも、さきほども書いた「共通の発達観と、その発達の道すじに障害を位置づけてとらえる障害観が、『共感の世界』の根底に位置」づけて、教育実践をすすめなくてはならない。それも考えさせられました。

 感想を書き始めたら、止まらなくなりそうです。(品川文雄)

 さて、今回の「もう一つの『発達のなかの煌めき』」についてです。糸賀の「この子らを世の光に」ということばは、あまりにも有名ですが、そこにはどのような意味が込められていたのでしょうか。今回の「もう一つ」の前半では、第1回の解説として、そのことをお話しします。後半では、「この子らを世の光に」に至る前史について補足します。近江学園をはじめとする諸施設を立ち上げていく草創期において、学園の内外の困難に直面した30歳代の糸賀が、その人間、集団、社会の諸矛盾といかに向きあおうとしたか、いかなる道標を得ていったかを学びたいと思います。


Ⅰ.糸賀一雄と「この子らを世の光に」

糸賀一雄について

 糸賀は、1914(大正3)年3月に鳥取市に生まれます。この年に第一次世界大戦が始まり、尋常小学校に入学した1920年には戦後の経済恐慌、さらに1923年には関東大震災とつづくなか、国民の生活は劣悪な状況におかれ、乳児死亡率も非常に高い時期でした。糸賀は1930年に旧制松江高等学校に入学しますが、病気のため休学。この頃、鳥取教会で受洗したとされています。高等学校卒業後、1935年に京都帝国大学文学部哲学科に入学、宗教学を専攻します。翌年には結婚。1937年には日中戦争が始まり、大学を卒業した1938年には国家総動員法が公布され、国民生活全体に戦時色が強まっていきます。大学卒業後、京都市の尋常小学校で代用教員の職に就きますが、間もなく赤紙の招集をうけました。その後、近江学園設立に至る経緯は、4月号に記した通りです。

 没後14、5年がたった1982-3年に『糸賀一雄著作集』(日本放送出版協会)が3巻本で出されていますが、その第Ⅲ巻には、1961年6月から、1968年9月に亡くなる直前までの著作が収録されています(ただし1965年の『この子らを世の光に』は第Ⅰ巻、未刊の主著『精神薄弱と現代社会』は第Ⅱ巻に収められています)。第Ⅲ巻の「刊行の辞」で、岡崎英彦(びわこ学園初代園長)は、この時期は「病気のため体力の衰えがかなり急速に進んだ時期」であったが、「それにもかかわらず、先生の思想の形成過程からみれば、むしろ鋭さを内に秘めた、それだけ迫力にみちた、最も力強い時期であった」とし、その背景には「最も重い障害をもって必死に生きる重症心身障害児とかかわり、その中に生き生きとした人間存在の核心というべきものを確認されたからであるとみてよいであろう」と述べています。さらには、重症心身障害児とのかかわりによって、「それまで悩んでおられた人間的矛盾、社会の矛盾を、思想的に克服され」、「身体の衰えとはうらはらに、精神の高揚と平安があったとしてもうなずける」とします。

 このことを、もう少しみていきましょう。

 近江学園創設は戦後すぐの1946年であり、糸賀、32歳の秋でした。1948年に児童福祉法の施行に伴い、滋賀県立の養護施設兼「精神薄弱」児施設となりました。同時期に、重度「精神薄弱」児のための「さくら組」が編成されています(その後、1950年に「落穂寮」ができ、そこに「さくら組」の子どもたちは移ります)。また、1949年には、学校教育法にもとづき園内に小学校、中学校の分校が設置されますが、教育施設の設置や予算の配分は1962年までなされませんでした。知的障害のない子どもたち(戦争孤児たち)は徐々に進路を見出していきますが、知的障害のある子どもたちの進路は厳しく、新たに入園してくる子どもたちの多くも知的障害のある子どもでした。1952年には新しく「さくら組」が編成されますが、教育委員会からの教育費の支給はなく、財政的困難が増大したとされます。一方で、「さくら組」の寛ちゃんが立木観音(大津市南郷から京都府宇治市に向かう瀬田川沿いにある)近くにある水車小屋で、水車の苔からとびちる無数の水玉に一日中見入っていたというエピソード(学園では、行方不明の寛ちゃんを探して大騒動でした)や、本物の狂言をみて(先生たちは、重度知的障害のある子どもたちに狂言の理解は難しいだろうと思っていたのですが)、「さくら組」の子どもたちが、狂言のツボにくるとキャーキャー声をあげ、手を叩く姿をみて、狂言の面白さがわかっている、理解力や言語力に困難を抱えていても、「感ずる世界」をもっているし、それは、障害のない子どもたちと何も変わらないという見方を深めていきました。「芸術に感動する心は、ひととひととのこまやかな心のやりとりがわかる心であり、愛情と意欲にめざめることのできる心である」(『福祉の思想』、第Ⅲ巻26ページ。以下での引用ページの表示は、すべて『著作集』のものである)と糸賀は述べます。だからこそ、財政的には厳しくても、重度知的障害のある子どもたちが発達していけるような教育が必要だと、実践的な試行錯誤を繰り返していったのです。

「杉の子組」のこと

 1953年には、「重度のてんかんと強度のノイローゼの児童2名」の長期療育が医局で開始され、翌1954年に「杉の子組」が発足します。2年くらいたったとき、「われわれがいちばん悲しくまた辛く思うことは、このごろの児童相談に、二重、三重の障害をもった子どもたちがたくさん出てきたこと、その子どもたちを引き受ける設備も能力も乏しい…乏しいなどというよりも、無能であるといったほうがほんとうかもしれない」と、当時の児童7人につき1人という精神薄弱児施設の職員配置の問題を告発しています。さらに、「二重三重障害の子どもたちも、だれひとりの例外なく、感ずる世界、意欲する世界をもっている。ただ生かしておけばよいのではなく、どのような生き方をしたいと思っているかを知り、語り合い、触れ合い、お互いにより高い生き方へと高められてゆくような指導がなされねばならない」と述べています(『近江学園年報』第8号、1958年)。さらに1959(昭和34)年には園児の死亡が相次ぎ、療育施設建設の決意をより強め、それがびわこ学園建設へとつながっていきます。

 そこから、逝去に至るまでの約10年間は、岡崎の言う「鋭さを内に秘めた、それだけ迫力にみちた、最も力強い時期」「それまで悩んでおられた人間的矛盾、社会の矛盾を、思想的に克服され」た時期となるのですが、以下に近江学園創設から亡くなるまでの重要事項を年表風に列記します。

 1946年11月 近江学園創設
 1947年 7月 年長児のための「一麦荘」設置
 1948年 4月 児童福祉法施行により「滋賀県立近江学園」となる。
  同     重度「精神薄弱」児の「さくら組」編成
 1949年 1月 糸賀一雄、堅田教会に転入
  同   2月 女子の「あざみ組」編成
 1950年 5月 「落穂寮」開設
  同 11月 堅田教会の「レーメンス・サンデー」講壇
 1951年 4月 機関誌『南郷』に「魂の故郷―四年半の回想」投稿
 1952年 4月 「滋賀県立信楽寮」開設
 1953年 7月 「あざみ寮」開設
 1954年 4月 重度の「杉の子組」開設
 1956年 4月 田中昌人、京都大学助手から近江学園研究室職員へ
 1957年12月 年少の「もみじ組」編成
 1958年 3月 重症心身障害児のための施設の必要を具申
  同   5月 大津市市制60周年を機に乳幼児健診に参加
 1960年 9月 母子像“世の光”(森大造作)建立・除幕
  同  11月 第10回国際社会事業会議(ローマ)出席と視察のためヨーロッパへ
 1961年 2月 ヨーロッパより帰国
  同   4月 知能指数という見方を廃止、暫定的に精神年齢による見方を採用
  同   6月 心臓弁膜症及び心不全と診断される
 1962年 5月 びわこ学園の建設着工
 1963年 3月 指導体制論議において、可逆操作の概念を導入
 1963年 4月 一次元可逆操作獲得前の児童の指導体制に着手
  同   4月 びわこ学園開設
 1965年 1月 第2びわこ学園の建設着工
  同 11月 『この子らを世の光に―近江学園二十年の願い』(柏樹社)発刊
 1966年 2月 第2びわこ学園開設
 1966年 4月 養護施設を廃止し、精神薄弱児施設のみとなる
 1967年 4月 療育記録映画「夜明け前の子どもたち」の撮影開始
  同   8月 大津市民健康相談所が開設され、乳幼児の発達相談の実施に協力
 1968年 4月 「夜明け前の子どもたち」試写会
  同   2月 『福祉の思想』(日本放送出版協会)発刊
  同   9月 糸賀一雄、逝去(54歳)


『福祉の思想』より

 さて、4月号では、亡くなる直前に著された『福祉の思想』(1968年 日本放送出版協会)の1節を紹介しました。
 
 「重症児が普通児と同じ発達のみちを通るということ、どんなにわずかでもその質的転換期の間でゆたかさをつくるのだということ、治療や指導はそれへの働きかけであり、それの評価が指導者の間に発達的共感をよびおこすのであり、それが源泉となって次の指導技術が生み出されてくるのだ。そしてそういう関係が、問題を特殊なものとするのでなく、社会の中につながりをつよめていく契機になるのだということ。そこからすべての人の発達保障の思想と基盤と方法が生まれてくるのだ」。
 
 この『福祉の思想』の「はじめに」で、糸賀は、「精神薄弱という現象が社会で問題となるのは何によってなのであろうか。こういう根源的な問いに誘われることによって、私たちは社会の構造的な矛盾に目を向けさせられざるを得なかった。そしてその問題性は同時に人間の価値観に私たちをいざなうものでもあった」(17ページ)と述べます。そして「私たちはこの子どもたちとの共同生活のなかで、いつのまにか私たち自身のこの子たちをみる目の変革を経験させられてきたように思う」「わずかこの20年余りのあいだに、自分たちの目もかわってきたのではあるまいかと一種のおどろきをもってふりかえる」(17ページ)と言います。

 重症心身障害のある子どもたちの「杉の子組」ができたこと、それが、びわこ学園設立につながったことは上述したとおりですが、1958年に「二重三重障害の子どもたちも、だれひとりの例外なく、感ずる世界、意欲する世界をもっている…お互いにより高い生き方へと高められてゆくような指導がなされねばならない」と書いた頃にはまだ、寛くんのような「精神薄弱」児から教えられたことは、どんなに障害が重くても重複していても共通している、普遍的なものであるに違いないという理念的な捉え方であったのではないでしょうか。

 それが、びわこ学園での子どもたちの姿や実践を通して、より深い理解になっていきます。その確信は、「生命あるものは輝いている。それは一片の感傷でもなく文学でもない。現実である」(76ページ)という文に端的に示されていると考えます。1967年から始まった『夜明け前の子どもたち』の撮影フィルムを見ていくなかで、子どもたちの生活があざやかに描き出されます。

 「五月の鯉のぼり、あの大きな布製の鯉のぼりが身近に横たわっている。それにさわってみることのよろこび。ポールにセットされた細綱の端に、自分の指を添えて、自分でもひっぱりあげている気持で、青空に高くあがる鯉を見あげているあどけない顔、顔、顔。また、野洲川の河原での石はこび。小石を入れものに入れたり出したり、運んだり、友だちと協同したり、ベッドに結びつけられていた紐をほどいて戸外に逃げ出していくときの解き放たれた姿など。そんなときのこの子らの顔は、ほんとうに輝いていた。表情は、たくさんの言葉なき言葉を発していた。彼らは多くのことをひとに訴えているのであった。

 私たちは、この表情と言葉のそばを素通りしていたのである。この子たちは、生ける屍といわれていた。なされるがままになっているものと思われていた。しかし、そうではなかったのである。立派な意志があり、意欲があり、自己主張があった。外界から刺激をうけとるだけでなく、外界にたいし、先生や友だちにたいし、はたらきかけているのであった。外界を変えていこうとする努力があった。外界を媒介として自己主張を実現しようと、たゆみなくはたらいていたのである。」(77ページ)
 
 重症心身障害児と言われる子どもたちが、決して「なされるがまま」「刺激をうけとるだけ」の存在ではなく、「外界を変えていこう」とたゆまぬ努力をしていることへの気づき、それはまさに、子どもたちの側に視座を移してみることへの変革でした。

 もちろん、それは映画撮影によって突然に見えてきたものではありません。『この子らを世の光に』が出版されたのは1965年ですが、その頃には、「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」だという確信が明確にありました。近江学園ができて20年、「精神薄弱」児たちと生活をともにし、幾度も失敗し、揺れ戻しも経験しながら職員集団でたどりついた「この子らを世の光に」が重要な意味をもっていました。
 『福祉の思想』では、終わりの方で、次の1節が述べられます。

 「この子らが不幸なものとして世の片隅、山峡の谷間に日の目もみずに放置されてきたことを訴えるばかりではいけない。この子らはどんなに重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間と生まれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである。」(112ページ)

共感には年季がかかる

 4月号では、子どもと本当に共感できるかどうか、人間的愛情が教育的愛に高まっていくには“年季がかかる”と述べたことにふれました。それはまさに、糸賀自身が、何度も壁にぶつかり、そのたびに自分の見方の浅さに気づかされ、苦しみ呻いてきたからでしょう。その痛みや恥に目をそむけず、目の前のいる「この子」たちが、生きよう、生きようとしている姿に教えられ、糸賀自身が何度も自分をつくりかえてきたからこそ、「何年かかってもいいではありませんか」という若い人びとへの言葉かけにつながっているように思います。その楽観性と人間的温かさがもつ深みにも、また心が動かされます。

 「身分、経済、人種の不平等や差別の克服が人類の課題になってから久しいが、いま私たちは生まれながらの能力のちがいからくる差別観の克服に立ち向かうという、新しい課題の前に立たされていると思う。いまはまだ夜明け前であるが、この子たちをみる私たちの眼がどのように育つかということが、この課題解決の足がかりとなるということを想うのである。

 それはつまりは、この子たちの存在そのものが、自分自身との対立にまで私たちを立ち向かわせるということにほかならない。

 私たちは、この子たちの前に立って教育を語るまえに、自分自身を告白せねばならなくなる。そしてさらに、この問題は、およそ教育の名において単なる文化財の伝達をもってこと足れりとする立場を越えて、教育がその底に人間の教育について掘り下げられなければならない課題性をもつものであることを明らかにしてくれる。おそらくは教育とか福祉の根底を問うところに私たちをいざなう足がかりがあるといったほうが、より正しいことかもしれないと思うのである。」(113ページ)



Ⅱ.糸賀一雄、平和への誓いと「発達」の概念

 「この子らを世の光に」そして「うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」という「発達保障」の理念に至った最後の10年の前にあって、それを準備したと言える学園の草創期のことをお話ししたいと思います。

 時が前後してしまいますが、糸賀にも学園にも、次の時代の礎(いしずえ)を築くための苦悩のときがあったことを、理解していただけるのではないかと思います。

白浜での誓い

 近江学園の4周年記念式を終えた1950(昭和25)年末から1951年にかけての日々は、糸賀にとっては大きな試練のときでした。36歳の冬です。

 近江学園につづいて「信楽寮」や「あざみ寮」を開設し、それらの事業を前に進めて行くために多忙を極め、持病の心臓の病を抱えながら奔走する日々でした。そうやって学園の外に向かって行かなければならなかったとき、内では職員間のいさかい、セクトのような集団、陰口、自慢話、淫靡な噂などが横行し、「四六時中勤務、耐乏の生活、不断の研究」という「近江学園三条件」のもとでの勤務への不満も噴出するようになっていきました。こころざしを一つにし、困難を受け入れて集ったはずの同僚のなかに、亀裂がいくつも走るようになっていったのです。糸賀は園長としての自らのあり方を問い、大きな自責の思いにとらわれていました。そればかりか、家庭内でも家族へいらだち、人格を否定するような妻への言葉遣いを自制することができず、それが糸賀の心労を重いものにしていきました。

 とうとう糸賀は、1951年の2月、学園の仕事の一切を打ち捨て、誰にも告げずに和歌山県の白浜温泉に向かいます(注1)。そして、湯崎という岬のつけ根の漁師の家に身を寄せ、幾日かを過ごしました。その家は、今も料理宿を営まれています。

 そうして過ごしたある日の早朝、糸賀は日課にしていた岬の突端の天然の露天風呂に身を委ねます。そのとき、まるでからだを打たれたような「しびれ」を感じました。自分がつかる湯も湯船も、「何万年の昔から、こうしてここにあったのだ」と悟り、「何をクヨクヨ心配していたのだろうか、なんでもないではないか」と、言葉が体中から発するかのように叫んだのです。流れ込む湯も、それを抱きとめる湯船も、悠久の時にあってそこに存在しつづけている…。なにをクヨクヨと考えていたのか。自分は、もっと大きな、ゆるぎないもののなかに身をおき、それを信頼して生きようとしていたのではないか。

 そして、宿に帰り、副園長の田村一二に独白というべき手紙を書き、大津市南郷の丘の近江学園に戻ってきたのでした(『この子らを世の光に』、著作集第Ⅰ巻105~108ページ)。この手紙は、おそらく後で述べる「魂の故郷―四年半の回想」に結実していきます。

愛によってむすびあうことから世界の平和へ

 この1950年暮れから1951年の春にかけて、糸賀はいくつかの重要な文章を書いています。そのなかで、「信仰とその働きを通じて平和へ」は、自身の手によっては公にされず、『糸賀一雄著作集第Ⅰ巻』(254~257ページ)と『福祉の道行―生命の輝く子どもたち』(73~79ページ、注2)に収められました。1950年11月19日、糸賀が教会員であった大津市の堅田教会の「レーメンス・サンデー」の講壇のために、白浜に旅立つ前の学園の4周年記念式の前後に書かれたものです。糸賀の個人としての「信仰告白」というべき内容をもっています(注3)。レーメンス・サンデーは、「信徒である私たちの献身の日であり、私たちが自分の生活の中に、神とキリストを求め、私たちの公私の生活がキリストによって導かれることに決意する」日と糸賀は説明しています。ときは朝鮮戦争勃発の年であり、東西冷戦激化のなかにありました。

 第一次世界大戦では、キリスト教国が互いに銃をかかげて戦勝を誓うという愚かさだった。そして第二次世界大戦を繰り返し、今その「反省のるつぼ」に叩き込まれている。そして東西冷戦がはじまり、はたして新たに生まれた国連はこの争いを防ぐことができるのかと糸賀は問いかけます。その答えは、「結局は、その国を、また世界を構成している私たちと同じ『人間』の問題に帰する」とし、「人間」の問題、換言すれば個人のあり方、人と人のかかわりを問うことは、「私たちをせんりつさせる真実」だとします。そして、「対立と抗争をやめさせるために、果して暴力が効を奏するでしょうか」と問いかけ、「宿命的な悲劇を断ち切るもの、それは十字架の愛でなくて何でありましょうか」と語ります。

 「十字架の愛」とは、イエス・キリストが、当時のユダヤ教の厳しい律法(教え)を批判し、抑圧、搾取されて社会の周辺に追いやられていた人びとに手をさしのべ、それゆえに進んで十字架の刑に処せられたことによって、愛の何たるかを身をもって語ろうとしたことを表現しています。糸賀は、十字架の死を事実として認め、意味を知っているのはキリスト者であり、それゆえ、その「自覚者こそ、世界の平和に対する責任者であります」と礼拝堂の聴衆に語りかけました。

 4月号(第Ⅱ部第1回)で述べたように、糸賀は2度の召集のいずれにおいても、病によって兵役を解かれました。その「生き残った」こと、そして旧制中学以来の友の多くを戦地で失ったことを、あまり語りはしませんでした。しかし、語らない姿にこそ、一人の国民としての戦争への反省、平和への希いを深く秘めていたのです。すべての生命を守りぬくこと、そして平和への希いは、彼の生涯に意味を与えつづけた、弱まることのない思いでした。

 糸賀は、世界平和への「自覚者の責任」という言葉を、キリスト者としての信仰の表現としてだけ語ったのではありません。先の講壇原稿では、戦後の日本人の悲願は、世界の平和の実現に献身することであり、それは「スローガンをかかげることに終わるものではな」いとしています。そして、具体的な日々の実践と生活を通して、人と人が争いを乗り越え、愛情によってむすばれる「良き隣人」に成長していくための努力を、「自覚者の責任」として自他に求めていたのです。 

 しかし、この信仰告白とは裏腹に、糸賀が直面していたのは、学園という小さな社会における個人の自己中心性や自己顕示欲の醜さであり、その渦中にあって、家族に対しても剣のような言葉を発してしまう自らの弱さでした。個人の創り出す社会が困難に満ちていることを、糸賀は、自らの実践と生活のなかで自覚せざるを得なかったのです。

 個人のこころざしの高さだけで草創期を歩んだ学園が、一つの「社会」として確かな力をもつための節目にさしかかっていたのです。糸賀は、その局面で、あらためて「人間というもの」を問わざるを得ませんでした。

発達は一人ひとりの人間とその社会への信頼と希望

 そして糸賀は、年が変わってから、南紀白浜への旅に出たのです。

 そこでの癒しを得て、南郷の丘に戻ってから、学園の内外の後援者に向けて送られる雑誌『南郷』に、「魂の故郷―四年半の回想」を書きました。1951(昭和26)年4月29日付になっています。以下は、その一部です。

 「デモクラシーの原理には『発達』の概念がとり入れられている。時が経てば凡てのものが変化する。その変化が『発達』であるためには、めざす目標へ近づく変化でなければならない。個人も社会も、その行くべき高き価値のめ(・)あて(・・)を指して、時に消長はあっても、常に現実を踏台とし而(しか)も現実に反逆しながら、全体として向上して行くと見る『発達』の概念に私は敬意をおしまない。それは極めて健康なリンゴの様な頬をした若々しさにみちた思想である。此の場合、個人は十八世紀の頃に述べられたような抽象的な孤立した個人ではなく、社会にまもられながら社会の成員としてこれに奉仕しつつ、而(しか)も社会の発達を促がす推進力であることによって自己も亦(また)発達するような、そういう具体的な個人を指していることはいうまでもない。

 (中略)学園が此の四年半に、果して成長し発展したかどうか、という問いに変えて、此の四年半に関係した凡ての職員たちが、内面的に果してどのような意識と自覚に立ち、どのような苦しみともがきを経験し、どのようにこれから生きようとしているかを問うことの方が、私は今日最も切実な問であるのではないかと考える。」(『この子らを世の光に』、著作集第Ⅰ巻109ページ)
 
 糸賀の言葉を少しかみくだいてみます。

 個人、社会は不変ではなく、内なる力によってつねに変化のなかにある。その変化が「発達」とよべるのは、その内にある大切な価値を実現していくという「めあて」をかかげ、その高みをめざして進むときである。その発達は、直線的で順調な変化ではなく、消長と一進一退のある過程であり、現実にある困難に抗し、そのことを踏み台として困難を乗り越えていくものでもある。そして理想を抱き、一方では足下の現実において自分と他者に問いかけ、葛藤し、困難を乗り越えて、高みをめざして歩いていく道行である。個人は、その構成員として社会のなかで、その自由と人権を守られながら社会の発達を推進していく存在であり、そうであることによって個人もまた、発達していくことができる。

 だから、学園の発展を問うことは、とりもなおさず、そのなかで一人ひとりの職員が、どんな意識と自覚をもち、それゆえに現実のなかで苦悩し、いかに乗り越えていこうとしているかを問うことであり、そのことの大切さを見失ってはならないのではないか。

 この糸賀の一人ひとりの職員の「発達」へのねがいは、すでに引用した「この20年余りのあいだに、自分たちの目もかわってきたのではあるまいかと一種のおどろきをもってふりかえる」という、亡くなる直前の『福祉の思想』の1節に結実していきます。

 文章はさらにつづきます。

 「われわれは常に現実の汚濁の中に身を置いている。この汚濁は自己自身であり、此の世の中であり、そして学園も汚濁そのものである。(中略)不完全や汚濁をそのままだきしめて『神は愛なり』と叫ぶ声に私は耳を傾けなければならない。成長しつつ発展しつつ而(しか)も依然として不完全な汚濁そのものである自己を、そのまま許して抱擁する絶対的な実在に真実の謙虚があるだけである。」(111ページ)

 われわれは理想をかかげて生きていても、現実のなかでは、それとは裏腹の弱さ、不完全さ、自己中心性などさまざまな矛盾をもって生活しています。自分も、仲間も、そして社会も、その「汚濁」を免れません。しかしそうではあっても、人は意志によって、よりよく生きることをやめようとはしないのです。そして糸賀は、その発達とそれへの人間の意志に「敬意をおしまない」と述べました。

 キリスト者の糸賀にとって、その汚濁を抱えつつ、なお高みをめざして歩もうとするのが神の似姿としての人間の本質であり、神は弱くて小さな存在である人間を見捨てず、その汚濁を受けとめて抱擁する絶対的な実在としての「大きなもの」でした。それを信頼して、再び歩みを起こせばよいと自らに言い聞かせたのが、「白浜での誓い」だったのです。それは近江学園の、自分も含む職員の一人ひとりへの「その行くべき高き価値のめ(・)あて(・・)」を抱きあうことへの要求であり、彼らへの信頼と愛情をゆるぎないものにする誓いでもありました。

 この糸賀の職員との関係は、清濁をあわせもった職員の発達を見守りつつ、理念を確かめあい、方向づけ、ときには叱責し、支えあげていくという「抱擁」という言葉にふさわしいものでした。何より糸賀は、職員たちの試行錯誤、悩みに心を寄せ、「園長への手紙」という職員からの「声」を歓迎し、出されたものには必ず鉛筆書きでのコメントを書き添えて返信していました。たとえば、「君のその試みは尊いと思う。実(み)を結ぶものと私は確信している」などと。そこに、糸賀の学園に集った職員たちへの限りない愛情を感じるのです。

 このように職員たちを受けとめることは、その職員たちの人格を介して、彼らが向きあう子どもたちの発達の事実を受けとめることでもありました。『この子らを世の光に』『福祉の思想』などで書かれている子どもたちの姿を、それを糸賀に語ったであろう職員のことを想いながら読んでみたいと思います。

 これらの学園に集った人びとが歩んだ道について、糸賀は『この子らを世の光に』の第1章で感慨深く語っています。

 「およそひとつの仕事が歴史のなかでその位置を占めるためには、なんとたくさんの要素がはたらいているものであろうか。そこには、支えや協力だけではない。若い芽をつみとろうとする暴力、悪意、ねたみなど、人間的な、あまりにも人間的な臭気さえ立ちこめるものである。そういう背景や環境のなかで、ひとりの人間が、そして多くの同志たちが、戦い、結合を深め、支えあって仕事がすすめられる。しかし、同志といわれ、内わのものといっても、生身の人間である。考え方や生き方の相異があり、発展がある。喜びもあれば絶望もある。われわれは何時も、はじめにもどり、めざすものは何であったか、自らに問い、人にも問い、確めあって、今日まで辿ってきたのであった。」(22ページ)

「発達保障」の理念への発展

 連載第1回で紹介した「辻教官」と「鳥居保母」が「劇」をめぐって思いの丈を語りあったのは、学園が10周年を迎えた1956(昭和31)年のことでした。その年に、京都大学から田中昌人(後に京都大学教育学部、全障研初代全国委員長)が近江学園研究室に入ります。そして学園にさらに多くの人材が集い、子どもの発達の道すじの研究と実践(昨年度の連載第Ⅰ部でお話ししてきたことは、この近江学園での発達研究に淵源があります)のなかから、「発達保障」の理念を掲げたのは1961年のことでした。

 障害の有無によらず、そして障害の軽重や違いによらず、その「すべての、文字どおりすべての人の生命が、それ自体のために、その発達を保障されるべきだという根本理念を現実のものとする出発点に立ったことなのである」(『この子らを世の光に』、第Ⅰ巻169ページ)と糸賀は記しています。

 つまり、今日私たちは、「発達保障」という言葉を、「子どもの」という前提で理解し語りますが、糸賀と近江学園にあっては、そうではありませんでした。岡崎英彦が言う「それまで悩んでおられた人間的矛盾、社会の矛盾」といかに向きあうかという糸賀の問いが発達の「ゆりかご」となり、そのなかで、「その行くべき高き価値のめあてを指して、時に消長はあっても、常に現実を踏台とし而(しか)も現実に反逆しながら、全体として向上して行くと見る『発達』の概念」が目を覚まし、子どもへの発達研究、実践と運動を「糧」として、「発達の法則性」に裏打ちされた「発達保障」の理念・理論として育っていったのです。

 これは、「おとなの発達が先か、子どもの発達が先か」あるいは「おとなが発達しないと子どもも発達しない」という問題ではありません。どんなに障害の重い子どもたちも感ずる世界、意欲する世界をもっている、すべての人間は生まれたときから社会的存在であり、人びとのなかで力いっぱい生命と発達を開花させようとしている。そのことが真にみえるようになるまでには、私たちは自分を問い、自分自身との対立にまで向かわなければならないときがあります。糸賀が言うように、およそ教育とよぶものが、この問いをもちえているかどうかが問題なのです。そして、その自らへの問いの過程があるからこそ、子どもの発達へのねがいも苦労の瞬間も、みえるようになってくるのです。そこに成立するのが、「発達的共感」でありましょう。

 「発達的共感」をもちえないならば、その発達認識は、子どもへの単なる「レッテル貼り」の繰り返しになってしまうことでしょう。そして指導・支援を通じて、その発達の知識に子どもを従属させようとします。あるいは、表面的な発達理解にとどまり、指導者としての自分に手ごたえを感じられないまま、他の認識や指導法に「移り気」していくことでしょう。


おわりに

 このように、発達保障の理念は、けっして研究室での研究や教室での実践という限られた世界のなかで生まれてきたのではありませんでした。そして糸賀や当時の近江学園の人びとだけではなく、日本のそこここに、障害のある人びとの生きること、発達することの意味と価値を問い、すべての人間の基本的人権、発達への権利を求めつづけてきた「たたかい」の歴史がありました。そのなかでまさに、生身の人間が自分の生きる意味を問い、生きる社会を見つめ、仲間、同僚と力をあわせ、人生をかけて創り上げてきたのが、「発達保障」だったと言えるでしょう。私たちは、ささやかな力ではありますが、その歴史の継承者でありたいとねがいます。

 糸賀が逝って55年、今なお、人間と社会の根本的な矛盾は大きく、この社会のなかで「弱くさせられている」人びとの苦しみは小さくなっていません。その困難の原因は、この社会における政治と経済のあり方、つまり人間を大切にしない問題だと私たちは考えます。それを変えていくには、なお長い時間がかかるかもしれません。しかし、人間とその発達、そして仲間を信頼し、短気にならず、粘り強さを信条とした歩みを進めていきたいと思います。

 「問題は子どもたちのあらゆる発達の段階をどのようにしたら豊かに充実させることができるかということである。教育技術が問われるのはこの一点においてである。しかし教育技術が生かされる基盤となるもの、むしろ教育技術をうみ出すもの、それは、子どもたちとの共感の世界である。それは子どもの本心が伝わってくる世界である。その世界に住んで私たち自身が育てられていくのである。子どもが育ちおとなも育つ世界である。あらゆる発達の段階において、子どもたちは、このような関係のなかに置かれ、あわてたりひっぱたかれたりしないで、豊かな情操をもった人格に育つ。それはちょうど木の実が熟して木からおちるように、次の発達の段階にはいっていくのである。」(169ページ)
 
(注1)糸賀は、自ら「私は昔から温泉が好きであった」(『この子らを世の光に』)と記しています。仕事の移動中に青森県八甲田の酸ヶ湯に立ち寄った折り、「いい湯だ。ここで泊まりたいものだ」と残念げに語ったことが伝えられています。それが許される現実ではありませんでした。酒も好きであり、信ぴょう性は確かではありませんが、酒にまつわる「武勇伝」も伝えられています。糸賀の人柄を理解する一助として記します。

(注2)『著作集』に収められたことは当然としつつも、糸賀の思想を多くの方がたに伝えるために、「新書判」として編集された『福祉の道行―生命の輝く子どもたち』(中川書店)に選ばれたことに感慨を覚えます。この『福祉の道行』は、田中昌人、三浦了(故人、元社会福祉法人大木会顧問)の両氏が中心になって、糸賀自身による出版企画の実現として用意されたものでした。しかし、なかなか日の目を見ることはなく、田中の亡くなるまで原稿は保存されていたのです。

(注3)糸賀の遺した言葉と思想は、その人格の骨格を形成していた信仰を措いて理解することはできません。青春の日の、文字通りの苦しい生活のなかで求めた信仰にも、そして近江学園での事業を支えた信仰にも大きな位置を占めたのは、使徒パウロの姿と言葉であったと思われます。京都帝大・宗教学の卒業論文は、「パウロに於ける終末の問題」でした。

 パウロは熱心なユダヤ教徒であり、イエス・キリストの弟子を迫害する側にありました。しかし、自らの内で熟しつつあった律法への盲従的な姿勢への反省によって、「目から鱗が落ちる」ようにキリストの教えに「回心」しました。幾多の迫害にも抗して古代キリスト教会の基礎を築いた「たたかいの信徒」であり、「愛と共感」を述べ伝える使徒でした。

 現在の苦しみのなかにこそ未来のための力があり、その希望があるからこそ、現在の困難を乗り越えていくことができる、困難や弱さのなかに人間の本質的な力が実現していくことを、身をもって語った人物です。

 「主は言われた。私の恵はあなたにたいして十分です。私の力は、弱いところのなかで確かになるからです。だから私(パウロ)は、キリストの力が私に住みついてくださるように、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから私は、弱いことを、そして艱難と迫害と苦悩を喜ぼう。なぜなら、私は弱いときにこそ強いのだから。」(パウロからコリントの教会の人びとへの第二の手紙)

 そして糸賀は、神との関係で恵みや救いを求めるのではなく、現実の生活において、人と人との関わりのなかで人格的存在が発達していくこと、「弱くさせられている者」の人格の輝きによって、私たちは勇気づけられ人格を解放できることを、未来への大いなる希望として感じ取っていったのでした。


学習参考文献
糸賀一雄(1965)『この子らを世の光に-自伝・近江学園二十年の願い』柏樹社
糸賀一雄(1968)『福祉の思想』NHKブックス
糸賀一雄(1982-83)『糸賀一雄著作集第Ⅰ~Ⅲ巻』日本放送出版協会
糸賀一雄(2009)『糸賀一雄の最後の講義-愛と共感の教育 改訂版』中川書店
糸賀一雄(2013)『福祉の道行-生命の輝く子どもたち』中川書店
髙谷 清(2005)『異質の光-糸賀一雄の魂と思想』大月書店
(『福祉の道行-生命の輝く子どもたち』『糸賀一雄の最後の講義-愛と共感の教育 改訂版』は、大手通販サイトで高額に取引されていますが、出版社の中川書店(福岡)のWEBページから定価で購入することが可能です。)

次回の「もう一つの『発達のなかの煌めき』」の公開は、7月上旬を予定しています。


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2023年04月12日