デンマークの確信<7>
脱施設化は新段階へ



帰国直前のカストラップ空港ではチケットの再発行手続きで2時間もかかり、おまけに機内預け荷物にも手間取った(^^;)
いろいろあって、もう出発まで10分もない。
すると、なにやら、大勢の日本人がどっと出発ゲートから戻ってくる??
なんだなんだと思ったら、エンジントラブルとかで出発は5時間後の夜8時に。

その日は朝から空港に8時間近くいたことになった。時間はたっぷりあったので、国際空港を舞台にいろんな人が待ちあわせる姿や人の動きを眺めていた。しかし、日本人は多かった。中国人も多かったけど、、、、、

そういえば、その日の早朝に乗った、市内の運河巡りのボートも、小雨交じりの天候とはいえ日本人が8割。「コペンハーゲンって、人魚姫は見たし、あとはなにがあるんべえ?チボリ?なんだべそれは?って感じ」(^^;)
それでも観光客ならまだまだ許せる。罪深いのは、どこかの議員たちの視察なのだそうだ。

補助器具センターなどは北欧の象徴的な存在なので、視察もたくさん来るのだそうだが、自分の関心のあるところ以外はメモしないどころか関心もしめさなようで(^^;) 説明するスタッフには、相当敬遠されているとのこと。
そんな影響もあってか、今回の私たちの訪問もぎりぎりまで「まじめ」な視察であることを確認させられた。

そんな議員や官僚たちが「換骨奪胎」してとり入れたのが日本の「脱施設化」施策というと、ちょっといいすぎだろうか。

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デンマーク教育大学でイエスパー・ホルスト教授から「施設解体後の障害者の地域生活支援」の講義を聞く。
ホルストさんは、北九州市立大学の小賀久さんがデンマークに留学している間に、いっしょに調査などされた方で、脱施設をめぐってはデンマークの第一人者だ

以下は、講義のメモ。
○第一期 1854年 デンマークに知的障害者学校がはじめてできる
・知的障害は直るのだ(治療や教育可能)という見方ができた。
・しかし、教育方法はさまざまだった。

○1880年から1910年 医者が主導した大規模収容施設の時代
・慈善事業的な、楽観的な見方だったが、医学や教育学的視点からの激しい論争があった
・有名な医者が雑誌に「教育学者は手を引け、医者に知的障害者を研究対象としてひきわたせ!」と発表したりした
・そして、大規模収容施設がつくられる。知的障害者を一箇所にあつめはじめる
・ある町には2000人の知的障害者が収容された。信じられますか?
・医者がいってに引き受けていた。
・知的障害者は日常社会から離れ、静かに生活すればいいという考え方だった
・知的障害者は医学的に分類され、
 「バカ、半分バカ(庭仕事)、バカに似ている(教育効果がある)」というような3分類だ

○1910年から40年ころ
・新しい考え方として、遺伝決定論が支配的となり、遺伝子学的議論がでてくる
・「知的障害児はたくさん子どもつくるから社会全体のレベルが低下する」という論
・だから知的障害者は社会に危険となる。「社会が知的障害者から社会を守る」となり、強制避妊された。
・そして、収容施設とその外の世界が完全に区別されてしまった
・人種衛生的発想はナチスの思想が有名だが、ユダヤ人の前に知的障害者がドイツでは虐殺された。

○戦後 1945年以降
・知的障害者親の会(LEV)が1953年に発足する。
・バンクミケルセンがノーマリゼーションを主張する。彼は法律家だった。知的障害者は他の人と同じ権利をもつべきと考えた。知的障害者をいまの社会に統合するのではなく、社会そのものが障害者をかかえるべきなのだ。知的障害者も家も、仕事も、家族をもつことも普通でなければならない。健常者がそうするなら、同様のことを知的障害者ができるように社会はすべきなのだ。差別をなくし、平等な関係をつくろう!
・こうしたミケルセンの主張は、1960年からのデンマークの福祉社会とフィットした。
・こうした考え方により、特殊な収容施設に閉じこめられた障害者を普通の社会に。同時に社会の差別、差別的法律の改正を求めた。

○1960年から70年にかけて
・大規模収容施設からより小規模なものに、
・養護学校から普通の学校にの動きがすすんだ

○もう一度ノーマリゼーションについて整理する
・理念には二つある。知的障害者の生活環境を変えようとする考え方=北欧型。アメリカ型では、知的障害者をどうノーマライズするか、人間をノーマライズしようとする。
・北欧型が人間的だとおもうので、それについて考える。
・テンポは遅かったが、社会的発展があった
・1980年(76年生活支援法で、障害者福祉の責任は国から県に移った)
・大規模の施設が国営から県営となったため、規模が小さくなった。

○1990年から
・知的障害者の住まいは、普通の住宅にとなってきた
・個々のニーズにあわせてアパートやグループホームに移り住んだ。
・アパートに住むときには専門職員がサポートする
・6人から12人単位の共同住宅(グループホーム)に
・そこに指導員が定期的にきて、生活支援する
・多くのグループホームでは24時間のサポートシステムがある
・県の提供するサービスでは60人くらいが住む(この場合は「施設」とはいわず「住宅形態」という。)
・要介護度が高い人のため、指導員が寝泊り体制でとりくんでいる
・こういうタイプのところを小賀さんといっしょに研究している

○仕事について
・仕事ができる人はそういう会社で、保護作業所で働く人もたくさんいる。
・デイセンター、アクティビティセンターで活動することもある
・芸術的なところでワークショップもある。絵画などなど
・90年代半ばに、ノーマライゼーションが生活現場まで浸透する、環境が整備されてきた
・健常者と同じ法律のもとに同じようなサービスが受けられるようになった

○そして いま、第二段階に入りはじめた
それは、同等の権利、同様の可能性、法のもとでの平等から、生活の質にかんするさまざま事項における平等の追求だ。
・脱施設化の名のもとにすすめられたが、いいところばかりでなく問題点も投げかけられた
1)住宅確保で孤立する。近所の人との交流がなかなか持てない
・地域の小規模なグループホームとなっても、そこではまだ指導員がリードし、障害者の生活を決めてしまっている。
2)「カルチャーハウス」など、ふれあいの場がつくられはじめている
・喫茶や全国フェスティバルなど
・全国スポーツ大会や、知的障害者のロックなどなど
・物理的なインテグレートはできたかもしれないが、精神的、社会的インテグレートはまだできていない。
・物理的なものの壁をやぶるために、大規模なグループホームのとりくみもうまれている。6人のグループホームから60人で10のグループホームで交流するこころみもうまれている

○残された課題
・孤立、孤独の問題は解決していない
・自己決定の問題もある
・1998年に社会サービス法の改正があった
 「知的障害者は指導者と協力して、将来計画をつくる」と義務付けた。それは、障害者本人の夢を基本にしたものでなければならない。自分のおもいをできるかぎり表現できるために
・2年前にこの法律の評価委員会があった。結果はたしかに目的は達成されているところもあれば、言語で表現できない人にとっては、要望、希望、夢をどのようにくみとるかが大きなテーマになっている
・県内7つのアムト(県)で、プロジェクトがされていて、小賀先生もいっしょに視察している。
・過去200年の歴史を見てみると、改善されてきたことは間違いないが、まだまだ解決しなければならないことも多い。

福岡の知的障害者のお母さんである八木トミエさんは
「脱施設はどえらい金がかかるとばいね」
「日本の政府は本気で考えておらんばい!」
と言っていました。

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日本の福祉を支えるマンパワーのヘルパーは、8割が非正規職員で、うち7割は月収10万円未満だと新聞で報じられています。
脱施設に先駆けて、少なくとも同時には推進しなければならない地域生活支援も、安定したヘルパーの労働力なくして充実は不可能です。

ミゼルファートに新築された高齢者施設・ゴイドベクスホイ・エルダーセンターで、
「これを施設でなくて、何とよぶのか?」
と聞いたら、
「手厚いケア付きの高齢者の家」でしょうね

 高齢者のホーム
  ▲ミゼルファートの高齢者ホーム

1998年の生活支援法によって、「施設」という表現はなくなった。「住宅形態(環境)」を問わず、どのような住宅に住んでいても必要なサービスを受ける権利がある、ことを明確にしている。

250名の障害者が暮らす、巨大施設・スールンはたしかに存在している。
 http://www.nginet.or.jp/~kinbe/SAS/sedk2001/sedk20017.html

それは、「施設」とは言わない。
公的な手厚いケアが保障された「家」なのだから。


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