上杉文代 「人生の旅」<3> 星の旅(2004年) 2004年9月、「障害者の人生を考える北欧の旅」、それは私の人生を考える旅でもあった。企画者は前回の収穫の上に、障害者の夜の活動、余暇に焦点を当て、また、長いスパンで障害者の生活を見ようとしていた。「観光」という要求も入れて。 旅の第一頁はノルウェーの太古の氷河が創った壮大な自然現象、フィヨルドの観光から始る。 ベルゲンを出発した登山列車の窓には眼を離すことの出来ない水と断崖の風景を展開する。湖のような入江を船で渡り、帰途はバスで肝を冷しながら絶壁の峰を縫う。山裾に点在する小さな家々。気の遠くなるような時間をかけて、岩が砂となり土となった僅かな山裾に家が建ち人が住む。世界遺産となっているお伽の国のような街もできて。私は厳しい北極にも、暑い砂漠にも住み着いて、文化を創る人間って素晴しい、と思った。 だが、だが。 シベリヤの空でビデオモニターで世界地図を見ながら、私は喜びと悲しみに揺れていた。イラクでは今日も人が死に、障害者がつくられている。アラビアンナイトの国が壊されている。そして私の隣には耳の聞えない我が弟・66歳が同じモニターを見ている。これは夢ではないか、と思うほどに人生の幸せである。 弟は私が13歳の時に生まれ、14歳で聴覚を失った。 それを知った時、私はわが家の上のオリオン星に手を合せた。 「助けて下さい」。 星の声は聞えない。絶望だけが返ってくる。 失ったものを認めることがどんなに切ないことか。 でも66年生きてきた。 今、二人は星になって飛んでいる。 仲間がいたから、障害者運動に捕まってきたからここにいる。 イラクで眼や手を失った子どもたちはどんな人生を歩むのだろう。 私は過ぎて来た自分たちの時間を思い、これからはじまる子どもたちの時間を想った。 ◆さらに前進していた福祉 デンマークに移動してから6日間で10回におよぶ訪問のすべてがショックだった。 まずコペンハーゲンで訪ねた知的障害者の親の会(LEV)のセンターでのシュターさんの話。でっぷりと太り自信に満ちた会長のシュターさんは運動の到達を語る。 「ノーマライゼーションの発想を法学者ミケルセンにさせ、実践して来たのは私たちの運動です」と。 発足は1953年、会長は選挙され、国会では大臣のシンクタンクでもある。 我が国の知的障害児の手をつなぐ親の会もこの頃結成されている。 福岡から参加したこの会の会員である八木さんは述懐した。 「我々は政府に要求するよりも政府の方針に従って来た」と。 でも今、私のまわりには学童保育や専攻科を創る運動に立ち上っている母親たちがいる。LEVほどになるのは何年先か。でも、そうなってほしいと思う。 ◆余暇活動=青年たちをここに連れてきたい! 私のまわりにはボランティアで支えられ、会場も保障されない青年学級があるだけだ。 コペンハーゲンで10歳から25歳までの青年を対象にした余暇クラブ「ラブック」を訪ねた。 入り口は軒が低く一見、地味な建物だが、中はくねくねと鰻の寝床、地下もあり二階もあった。活動はスポーツ(乗馬、スキー、水泳、ボーリングなど)美術、音楽が中心。キャンプや国内旅行、海外旅行もある。会費制で登録者は200名を越え、利用者は一日平均100名、午後から夕方が60名、夜は40名。スタッフはフルタイム職員24名も入れて全員100名。市の「社会教育」の予算として年間5億円。溜息の出る話である。他に障害の重い人の余暇活動センターもオープンすると言う。 だが溜息を終るにはまだ早い。 次に尋ねたオーデンセには日中の活動センターがあったのだ。 海軍の兵舎を改造した新しい建物には喫茶部「カフェ・クレア」があった。 喫茶部だけではない。ミニ映画館、ジャズバンドの練習場。8人のバンドメンバーは街中で仲間のパーティで演奏する。ディスコのホール、学童クラブの部屋に子どもたちが居た。驚いたのは2階に並んだ7つの個室のアトリエ。作品を印刷したカードを専攻科や作業所に通う青年たちのお土産に買った。 あの青年たちをここに連れて来たい!と思った。 ◆知的障害者グループホーム=クロンボーフスでの驚き 薗部さんは第1回目とその間にも訪問し、3度目だという。 最初訪問した時は精神病院の跡地に建てられた県立の施設で、24名の重い知的障害者が1名に職員2名で、24時間の活動を援助されていた。個室は8畳ほどでベッド以外は私物、台所と居室は共同だった。 三年前に訪ねた時は、23歳から76歳まで、絵文字でコミュニケーションをとり、多くは近くの県立の作業所に通い、数名はデイホームで創作や散歩をしていたという。 そして2003年5月、市の中心部に近い現在地に移転して来たのだ。 広い敷地に、グリーン、ブルー、イエローと色分けして呼ばれる3棟と訪問した家族の泊れるゲストハウス、事務室等の一棟がロの字型に庭を囲み、一棟に7人分の住居がある。ドアに表札と郵便受。住居法が変り、一人に寝室と居間、台所とシャワールームの4部屋65平米が保障されねばならない。21名の障害者に20名のスタッフだ。 部屋を覗くと、愛酒家の青年の居間にはカウンターがあり、回る色彩の照明がバーの雰囲気を出している。自閉症の若者の居間には、色とりどりのビニールのボールのフールがあり、養護学校のプレイルームを思わせた。みんな同じ部屋でなく、障害と個性に合せて、自分らしく生きている。平日の朝は5台のバスがそれぞれの日中活動の場に運んで行く。 これが「施設解体」をした10年後のクロンボーフスの姿だった。 ◆夜の議会見学 エイビュー市は人口8000の自治体、市会議員は15人が無給、各自仕事を持っている。だから夜7時からの会議。通常、月、水の夜だが、今夜は超過した予算の事で特別に木曜日の夜。議員の数より多そうな老若の傍聴者。みんな一緒に立って歌集を開いて歌を唄い始めた。明るい歌だった。 会議が始る。市長が議長して熱心に意見を述べる。中学校の生徒会のように真面目だ。 後で聞くと使いすぎた予算をどこで抑えるか、各自に、自分の責任の部署の必要について語っていたらしい。我々は傍聴を予定した30分をオーバーして坐っていた。みんな納得して結論を出す。汚職などないのだろう。捕らえられている我が街の市長の顔が浮ぶ。 ◆基礎学校、スコウヴァング・スコーレンで見た運営の民主主義 その学校はコペンハーゲンから25キロ離れた人口2万4千の自治体にあった。 校舎は平屋建てで、遊具の整備された中庭を囲んでいく棟もあり就学前の子どもから、1年生から9年生まで500人が学ぶ国民学校、義務教育の場である。うち移民の生徒(2か国語を語る生徒)が1クラスに2、3人がいる。 構内は4つの場で構成されていた。 1)低学年コーナーは就学前と1・2・3年生。 2)4・5・6年生。 3)7・8・9年生。 4)学習障害児2クラスと障害児学級。 障害児学級はセンタークラスと呼ばれていた。 学習障害児(33名)は近隣の市と提携し、センタークラスは県の事業で県内各地から24名が通っている。小さな養護学校であった。場の統合である。 第一回に訪問したヘルシンオアの生徒数300人の小学校にも29人の障害児がいて「チーム5」と呼ばれていた。 10人の教師とOT、PT、STが配置された小さな「養護学校」だった。あそこもインテグレーションは「場の統合」として行われていたのだ。 不在の校長に代って我々に学校の案内、説明をしてくれたのがセンタークラスのリーダーで副校長の女性ルットだった。もう一人の男性副校長と教育サービスセンター(図書館)のヘルゲン。図書館といっても図書が並べてあるだけでない。教材研究や学習指導に必要な資料や機具が豊富に準備され、世界で起った事がすぐに学習に提供されるような情報の設備もあった。図書も子どもの要求によって選びやすいように工夫して並べられ、独りで読みたい子のために、カーテンで囲われた秘密の部屋もあった。そこまで一人ひとりが大切にされていた。 ルット副校長たちの話を聞き、質問し応答の中で感じた事は、民主主義、自治という事だった。 国民学校は国が枠組みを決めるが、自治体に裁量権がある。各学校は学校で目的を決め、その目的は校内の各パートの目標によって決まる。教育目標は教師だけでなく、保護者と生徒代表で決める。将来民主的な社会で暮せるよう、生徒代表は学校運営の様々な所に参加し、理事会にも参加する。したがっていじめはあっても不登校はない。学童保育のコーナーもあった。自由に過せる配慮された空間であり、むろん希望する障害児も通ってくる。 ◆一人暮らしする青年・ミケイルを訪ねた ミゼルファート市の市役所の近くのアパートに住む進行性の難病の方である。5人のヘルパー24時間交替で介護されている。部屋にはヘルパーの泊る部屋も付いている。薗部さんとは3年前に会っているとのことですぐに話が通じた。 彼は32歳、複雑な機具をつけた車椅子に乗り、パソコンを使うイラストレーターのようだ。様々な介助器具がある。ベッドから体を吊り上げて、トイレに運ぶ装置もあった。 私はそれを見て知人のMさんの生活を思い浮べた。 仰臥の形でしか車椅子に乗れない脳性マヒの方。自分で考案した電動車椅子に乗り、アパートを改造して、車椅子からベッドへ体を自分で吊り上げて、ベッドへ移動させている。彼女も僅かに動く左手指でボタンを押し、ミシンやパソコンを使う。だが週に4日来るヘルパーの生活は贅沢だと言われ、20年前全障研に近づいて来た。後3日分を自分で探していたのだ。彼女の収入は年金だけだ。 IT生活に生甲斐をもち、聞きたい公演には愛車で出かけるデンマークのミケイル。乏しい年金の中での自立生活を贅沢と言われるMさん。「この国に生れたる不幸を」と言う言葉を思い出す。 ◆高齢者福祉に見る民主主義 訪ねたのはミゼルファート市(人口2万弱)に新築された高齢者施設、ゴイドベスクホイ・エルダーセンター。海の見える広い草原に4棟が建ち、1棟が痴呆性老人のユニットである。炊事場と広い共用のフロアーを挟んで10人の個室が5つずつ並んでいる。個室には2人の介助者が動ける広い寝室と居間、シャワールームとキッチンの4つの部分があり、その人らしい雰囲気の備品があった。 説明してくれるのはヘルパーのメッタ・ハンセン。彼女の活気に充ちた話から、ここでもデンマークの生きている民主主義を感じた。 新しいセンターが建つ時、老人を直接介護するヘルパーの意見が、保健婦や医師の考えよりも大切にされたという。本人を中心にヘルパー、家族、関係者の意見が平等に討議され、最もよいものが創られていく。旅行会社ホライゾンの深井さんは「ミドルファートとの13年」という文章の中で、この間、2つの高齢者センターと20戸の老人ホームを建て、なお前進するこの小さな街の、福祉の底力に驚嘆している。 ◆たえず追求しているノーマライゼ−ション。 北九州市立大学の小賀久氏がコペンハーゲン教育大学にちょうど留学して、イエスパー・ホルスト教授と共に「施設解体後の障害者の地域生活支援」で実態を追求している。私たちはイエスパー教授の講義を聞いた。 イエスパー教授は知的障害児教育の歴史とノーマライゼーションの歩みについて語り、知的障害児親の会(LEV)の活動も歴史に位置づけていた。小賀氏は施設解体の実態について語った。二人の話は教育や福祉の現場を訪ねた私たちの、実感に触れるものであった。 たしかにデンマークの知的障害児への教育の開始は、日本より100年は早い。しかし障害観に医者と教育者の対立があり、1000人以上収容する大規模施設の時代が続いた。第一次世界大戦から第二次大戦にかけて、遺伝決定論が支配的であり、施設と一般社会は完全に区別され、障害者は差別された。 解放されていくのは戦後である。1953年にLEV、知的障害者の親の会が発足する。また、社会省大臣の法律家バンク・ミケルセンがノーマライゼーションを主張する。知的障害者は他の人と同じ権利を持つべきだ。健常者が仕事をし、家を持ち、家族を持つように、知的障害者も同じことが出来るように、生活環境を変えよう。これがミケルセンの唱えた北欧型のノーマライゼーションである。アメリカ型のノーマライゼーションはファンテン・ハウスの影響を受けた。知的障害者をノーマライズして社会に合わそうとするものである。 ミケルセンの主張は60年代のデンマークの社会に受け止められ、隔離されていた障害者を社会に戻し、差別的法律の改正を求めた。1976年の生活支援法で障害者福祉の責任は国から県や市に移った。1500人も収容されていた大規模施設が国営から県営になり、規模が小さくなった。1990年代にはインテグレートするために住居が変っていく。県や市が提供するアパートやグループホームとなり、24時間の生活支援体制がとられた。仕事環境も可能な人は企業で働き、多くは保護作業所に通い、余暇活動センターでは多様なスポーツ、文化活動が保障されている。これが今回の訪問でも見聞きした通りである。 例えばクロンボーフスの10年の歩みを見ても、現状に満足せず、よりよいものへと変えられている。これが第一のノーマライゼーションである。と教授は語った。 1998年、新しい社会サービス法ができた。 ノーマライゼーションの第1の到達として、同等の権利、同様の可能性は実現できた。 第2のノーマライゼーションの追求は生活の質の平等だ。と教育学者の言葉に熱がこもる。脱施設は進んでも地域で孤立していないか、指導員が知的障害者の生活を決めてしまっていないか。孤独、孤立を打破するふれ合いの場が必要だ。 物理的インテグレーションはできたが、精神的インテグレーションはできたのか。指導員は知的障害者を牛耳ってはならない。一緒に将来の夢を語るべきだ。言語のない障害者の意思表示を追求する、これが課題だと教授は言う。私たちの言葉で言えば、生活の主人公になっていく、発達保障の追求だ。 恵まれた今回の旅の欠落は前回同行した群馬・桐生の高村瑛子さんが居ない事だった。 元保育園長の優しい面差しの彼女はオーフスの高齢者の生活を見て言ったのだ。 「日本の老人も何時になったらこんな生活が出来るのだろう」と。 一人暮しの彼女はヘルパ−にも看取られずに逝ってしまった。 旅慣れた彼女は今も北欧の町のどこかを歩いているような気がする。 彼女は晩年「吾妻山」という小冊子を障害者とともに編集していたのだ。 ▲コペンハーゲン |