オーフス市のプライエムの一室で
今回の旅の大きなテーマは、
日本で導入を決めてしまった介護保険、ないしは介護の実態を、
まさに介護保険として実施している数少ない国・ドイツと
税金を財源として合理的な福祉政策を模索しているデンマークとスウェーデン
このバルト海沿岸の三国を訪ねて、
見て、感じて、考えようというものだった。
訪問したのは、
1)ドイツ・キール市
ナーシングホーム(介護ホーム=日本では特別養護老人ホーム)の
ゲルトールド・フェルッケン・ハウス
2)デンマーク・オーフス市
プライエム(ケア付き老人ホーム=特別養護老人ホーム)の
オービュ・プライエム
ローカルセンター(高齢者地域センター)の
ローカルセンター・オービュゴー
3)スウェーデンのイエルファーラー・コミューンが設立した
エーケン老人ホーム(特養)
受講した講義は、キール市にて
・ドイツ留学中の山本忠立命館大学法学部助教授「ドイツの社会保障」
・シュレースビッヒ・ホルシュタイン州総合保険機構
(AOK=ドイツ最大の保険機構)より「ドイツ介護保険システム」
「ここはケア付きの福祉住宅です」
とスウェーデンでは言われたが、
まさに住んでる人の住宅であって、個室は当然。
自分の思いでのものを持ち込んで当たり前。
家族との面談は24時間OK。だって住んでる人の住宅なんだから、、、
デンマークでは、
1950年代につくられた個室(キッチンなくトイレ共用)
1970年代につくられた個室(トイレ・バスと簡単なキッチン有)
を見せてもらった。
50年代のものは大改修工事中で、
キッチンとトイレ・バス付で22平方メートル以上の広さにするのだという。
これは「キッチン」がポイントで、
電磁器で(一般の家でも普通につかっている)
自分で簡単に再調理できる環境をつくるのだそうだ。
ボケ防止なのだという。
ドイツで、痴呆性老人のフロアーを訪ねたところ
あるおばあさんに、こちらも74歳の上杉さんが
「でんでこ太鼓」をさしだしたところ、
映画「レナードの朝」の1シーンにように、
当然、動き出して、笑った。
その時、他の数名のおばあさんたちは止まっているかのようだったが
それぞれに千代紙の折り紙などをあげると、
それぞれが動き出すのだった。
スウェーデンの「福祉住宅」のサンルーム
そんな、いろいろな場面が思い出されるが、
この国々と日本には決定的な違いがある。
日本が超高齢化を迎えるころの主役は、数十年後のわたしたちだ。
カミサンかわたし、どちらかが痴呆状態になったとする。
申請が認められれば、
ドイツならば「介護保険」から現金支給もあれば、老人ホームも選択できる。
デンマークのオーフス市ならば、
1.5万人の地区に275名の市の職員が配置され、
206の老人住宅が地域にある(内105は特別養護老人ホーム)。
スウェーデンでもしかりだ。
映画「安心して老いるために」のシーンが浮かぶ。
しかし、日本ではどうか。
数の問題ではない。数を比較はじめると、腹立たしさをこえて悲しいくらい日本は貧困だ。
では、決定的な違いはなにか。
日本の場合
「家族の介護に欠ける」場合のみ特別養護老人ホームに措置される。
つまり、介護の主体は家族である!というのである。
18歳になれば子どもは家族から自立し、その後は社会が責任をもつ。
この常識は、北欧だけででなくドイツでもそうだった。
デンマークでは「介護休暇制度」があり、親の介護のために休暇がとれる。
しかし、介護の責任は社会(国であり自治体)にあるわけだから、
無給であるわけはない。国がやるべきことを家族がしている関係にあるのだ。
この根本的な違いに愕然とした。
ところで、
いま日本では「社会福祉構造改革」という動きがある。
社会福祉諸法を改正し、介護保険法の施行同じ2000年4月がXデイとされている。
福祉業界の2000年問題である。
この激流とも濁流ともいえる動きのなかで
目の敵にされているのが「措置制度」だ。
これについては真田是(日本福祉大学)が明快に論破している。
「注目すべきなのは、世論操作のトリックではなく。
政府・財界の措置制度くずしの真意である。
それは国民の暮らし・健康・人権保障の国家責任を解体することであり
社会保障・社会福祉からの国家の解放である。
これがすぐには完全にできない場合でも、
措置制度外社会福祉を広げることで国家責任を半減していくことである」
(『講座 発達保障3 障害福祉学』全障研出版部)
テレビの座談会で、
「地方自治体は破産の危機にあるから、その痛みを住民もわかちあわねばならない」
(その「赤字」は誰がいつ何によって「危機」としたのか?)
「NPOと自治体とそれぞれのサービスを住民が選べばいい時代が来る」
(NPOは自治体のやるべきことの肩代わり役なのか?)
こんな自治体の長や企業のトップの発言を聞いた。
そんな「トリック」ばかりが「識者」の「常識」として横行している日本である。
ではなにゆえに「措置制度」が大事なのか、
もう一人の大御所・小川政亮はいう。(あ、旅の団長さんでーーす(#^^#))
「戦後日本の社会福祉は、人間の尊厳(憲法13条)、平等(14条)
の現代社会における実質化というべき生存権条項(25条)にもとづくものです。
憲法25条は、第1項で、すべて国民は健康で文化的なという意味での
最低限度の生活を営む権利を有することを明らかにしています。
この権利を誰がどういうかたちで守らなければいけないかを
明らかにしているのが2項です。
そこでは、国がすべての生活部門について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の
向上の及び増進に務めなければならないとしています」
さらに、
「要求に応える責任と義務が地方自治体を含む国にある」
とし、
「措置制度は現行社会福祉制度の基礎構造の重要な一環」
とのべている。
(「社会福祉の憲法的基礎構造の危機」「福祉のひろば」98年10月号)
福祉極貧国日本で、その福祉の責任は、「家族」でなくて、
地方自治体含む国にあるというシステムが現行の「措置制度」なのだろう。
では、「あなたの老後の運命は」?
じつは、今度の旅のネタ本となった一冊・大熊一夫のぶどう社の書名であるが、
さて、
わたしたちの老後の運命は、
国家的な福祉切り捨ての濁流のなかにある。
(つづく)