連載15回<もう一つの「発達のなかの煌めき」> 第Ⅱ部第3回

もう一つの「発達のなかの煌(きら)めき」
第15回(第Ⅱ部第3回) 乳幼児期の保育・療育についての覚書<その2>



 今回は、障害のある子どもたちに対する児童発達支援等での療育や保護者支援にかかわって、「行動理論」を背景とする行動療法・応用行動分析等について考えていきます。


「療育」とは何か
 そもそも「療育」という用語は、「肢体不自由児の父」とも呼ばれた高木憲次(1888-1963)によって提唱されました。整形外科医であった高木は、肢体不自由児(この「肢体不自由」という用語も高木の提唱によります。当時は侮蔑と憐れみの意味が強い「片輪」「不具」といった呼ばれ方をされていました)に対し、外科的治療だけではなく、医療、教育、職業の機能を兼ねた施設が必要と考えました。整肢療護園(現 心身障害児総合医療療育センター)にある記念碑には、「療育の理念」として、「児童を一人格として尊重しながら、先づ不自由な個処の克服につとめ、その個性と能力に応じて育成し、以って彼等が将来自主的に社会の一員としての責任を果たすことが出来るように、吾人は全力を傾盡しなければならない」と刻まれています。

 1970年代になると、養護学校の設置も少しずつ進み、それまで就学猶予・免除の対象となっていた学齢期の障害児を受け入れていた通園施設等が、就学前児を対象とするようになります。あわせて、未就園児を対象にした早期支援の場も少しずつできはじめます。そのなかで、就学前の障害幼児を対象とした支援に対し、一般の保育と区別して「療育」「早期療育」という用語が使われることが増えていきました。もちろん、子どもの障害によっては医療や機能訓練的取り組みも重要になりますが、多くの知的障害児や、自閉スペクトラム症などの発達障害児に対しては、必ずしも医療や訓練は必要ではないでしょう。また、障害があっても、一人の子どもであることに変わりはありません。医療や訓練を必要とする場合であっても、子どもらしい生活やあそびを保障することが求められます。つまり、医療や訓練の必要性の有無にかかわらず、生活やあそびをベースとした通常の保育を子どもの発達のペースにあわせてゆったりと保障していくことが「療育」の基本であると考えます。ただ、はじめて「療育」という言葉を聞いた人は、通常の保育とは異なったもの、「医療」「治療」の意味合いが強いものという認識をもつことは想像できます。

 健診等で何らかの「発達的つまずき」が見つかり、「療育に行きませんか」と勧められた保護者からすると、通常の生活やあそびだったら保育所や幼稚園と変わらないし、あえて「療育」に通わせる意味はどこにあるのかという疑問をもつのは当然です。子どものかかえる遅れやつまずきを「治す」ための特別な手立てをしてほしい、集団ではなく個別に対応してほしいと多くの保護者が願うでしょう。

 1歳半健診でことばや指さしが見られず、その後の経過観察を経て2歳から療育に通うようになったAくんのお母さんは、「療育に通い始めたけれど、散歩や水遊びばかりで、いつになったら“ことば”を教えてくれるんだろうと不安になった」「これだったら、わざわざ通う必要がないのではないかと思っていた」と話してくれました。しかし、通い始めて数か月後の親子保育の日、いつものように水遊びをしていたAくんが、水に触れる心地よさと、手にあたってはじける水滴の面白さに目を見開き、そばにいたお母さんの顔を見てニッコリ笑います。そのとき先生の「お母さん、これがことばの芽なんだよ」ということばを聞き、はじめて水遊びの大切さを知ったそうです。そして、「私は子どもの器に詰め込むものばかりを探していたけれど、器の入り口を広げるのも療育なんですね」とも語ってくれました。

 こうした発達支援を必要とする子どもたちにとって、一人ひとりにあわせてゆっくりじっくりかかわることは必要ですが、それは「個別支援」を意味するものではありません。保育所等の大きな集団では自分を出しにくく、部屋を飛び出したり、カーテンのなかにくるまってしまいやすいけれども、小集団である療育の場では、お友だちの顔をのぞきこんだり、友だちがするあそびを憧れのまなざしでじっと見ていたりということもよくあります。重い障害のある子どもたちも、おとなと子どもの違いはよくわかっています。友だちに憧れ、友だちに憧れられ、ときにぶつかったり、笑いあったりと、多様な応答関係を積み重ねることで育っていくのは、障害のある子、発達支援を必要とする子も同じです。こうした姿は個別の療育では決してみられません。つまり集団か個別かの二者択一ではなく、その子が自分らしさを発揮できる集団を求めているのだと言えるでしょう。

 こうしてその子にあった日課と集団のなかで、安心して自分を出し、人とつながる心地よさを感じ、食事、排泄、睡眠、生活リズムなどの生活の基盤を少しずつ整えていくという幼児期のあたりまえの生活をつくっていくのが「療育」と言えるでしょう。

 こうした「療育」の本質にかかわっては、連載(第Ⅱ部第4回7月号)の草笛学園での実践、「もう一つの発達のなかの煌めき」(第14回)、そして、4月号からの連載「仲間がいっぱい ひろしまの療育」を再度お読みください。


ペアレント・トレーニングと行動療法・応用行動分析

 次に保護者支援について考えます。連載(第Ⅱ部第2回5月号)では、報酬加算の適用によって、ペアレント・トレーニング(以下、「ペアトレ」)を行なう事業所が増えていることを書きました。そのなかでも、「ペアトレ」とはどういうものか簡単にふれました。ここでは、もう少し、この「ペアトレ」について、その背景にある理論とあわせて考えます。

 日本発達障害ネットワーク『ペアレント・トレーニング実践ガイドブック』(厚生労働省の「障害者総合福祉推進事業」(2019年度)として実施された「発達障害支援における家族支援プログラム実施基準策定及び実施ガイドブックの作成」によるもの、以下「ガイドブック」)を見ると、「ペアトレ」の概要を把握することができます。
 
 改正発達障害者支援法(2016)で「家族を含めたきめ細やかな支援」「地域の身近な場所で受けられる支援」の重要性がうたわれ、その「必要な家族支援の一つ」としてペアトレが推奨されるようになりました。また、厚生労働省による発達障害者支援施策のなかに「発達障害者及び家族等支援事業」があるのですが、その事業の中の一つに「家族のスキル向上支援事業」があり、それは、保護者に対するペアトレの実施等に対して都道府県や市町村の自治体を支援するものだと「ガイドブック」は説明しています。そして、ペアトレとは、「環境調整や子どもへの肯定的な働きかけを学び、保護者や養育者の関わり方や心理的なストレスの改善、子どもの適切な行動の促進と不適切な行動の改善を目的」としたプログラムであり、子どもの行動修正までは目指さないものの、「保護者の認知を肯定的に修正すること」に焦点を当てた「簡易的なプログラム」だと説明されます。

 「ガイドブック」には、「ペアトレを受講した親は、我が子への理解が進み、自身も子育てのストレスが軽減し、『切れ目のない支援』のキーパーソンとなることができ」、「その親とともに育った子どもも適応的な行動が増えて、自尊心を高めながら成長していけるようになります」と書かれています。つまり「ペアトレ」とは、子ども自身に直接的に働きかけていくものではなく、親を変えることで、結果的に子どもによい影響をもたらそうとするものと言えます。

 「ペアトレ」は、1960年代から米国で発展してきたとされていますが、その理論的背景となっているのが「行動理論」と言われるものです。従来の、人間の意識のみに目を向ける心理学を批判し、観察可能な客観的事実としての行動を分析対象とすることで「科学的」な心理学になるとするもので、経験や環境要因に重点をおくという特徴ももっています。これが子どもの療育に応用される場合の目的は、子どもの行動変容であり、その行動変容のために、「親がほめ方や指示などの具体的な養育スキルを獲得すること」が「ペアトレ」の目的ということになります。具体的方法としては、いくつかの方式があるようですが、「ガイドブック」では、プログラムの質の維持のために「基本プラットフォーム」を開発したと説明されています。その詳細をここで述べることはしませんが、いくつかの核となる要素を、対象となる子どもや親の実態に合わせて組みたててプログラムにするもので、方法としてはグループワーク(「全5回以上、概ね隔週で1回のセッションは90~120分程度をめやす」とし、「1グループ4,5人~7,8人」が基本とされ、「参加者は原則として全ての会に出席することが求められ」る)とホームワークが基本になります。その際、回数が少ないと、「『ほめる⇔ほめられる』関係が保てなくなると感じる親も少なく」ないため、「セッションの実施回数だけでなく、実施している期間も重要」だと説明されています。また、終了後2~3か月後には「フォロー回」を設定し、再度ほめることの重要性をグループで確認しあう機会をもつことも強く推奨されています。

 このように、子どもへのかかわりの基本は、「ほめる」ことだと何度も強調されます。ただし、ほめる対象は、その子自身ではなく、子どもの「適切な行動」に対してです。逆に「不適切な行動」については、基本的に無視をするという方法がとられます。とにかく、子どもの「適切な行動」をほめ、「不適切な行動」については無視をすることで、子どもの行動の変容をせまっていくということです。そして、この<ほめる⇔ほめられる>関係をできるだけ維持するために、グループワーク、ホームワークを続けるということになります。

 そもそも「行動理論」や「行動主義心理学」は、人間の意識や内的な心理過程は、客観的事実として観察できないとして排除するもので、その点では動物心理学との親和性が高いものです。動物の行動を変容させるためには「エサ」が用いられるわけですが、人間の場合、その「エサ」が、「ほめる」という行為に置き換えられているようです。

 全障研委員長でもあった心理学者の茂木俊彦さんは、「発達上の障害がある子どもに対する心理学的訓練・治療の技法は、学習心理学を背景とした行動療法的なものと、心理療法的なものに大別することができる」としたうえで、それぞれどのように実施されてきたか、教育のなかでどう位置付けて取り組んでいくのかについての見解を述べています(『障害は個性か』大月書店 2003)。

 そのうち、後者の「心理療法」については、受ける人の認知能力が一定水準以上でないと効果をあげにくいとされてきたことから、幼児や知的障害のある場合には適用が難しいと考えられてきました。一方で、「行動療法」は、「オペラント療法」「行動修正法」「応用行動分析」等として、60年代半ば以降にさかんに用いられるようになりました。その基本的手法は、形成しようとする好ましい行動がみられたときにご褒美(おやつ、シール、花丸など)、ほめ言葉といった強化因子を与え、逆に、離席、奇声を発するといった不適切な行動をしたならば、「負の強化因子」として、その場から一定の時間遠ざけさせる(タイムアウト)、無視をするといった対応をとります(茂木は、これらを「処罰学習」の一つだとしています)。これは、子ども自身への直接的働きかけとして行われてきたものですが、親もそうした「治療者」に位置付けるのがペアトレと言ってよいでしょう。

 しかし、もし子どもが何らかの「不適切な行動」をしたとしても、そこには何らかの理由や背景があるはずです。ことばではうまく表現できない思いや要求を、そうした行動で必死に訴えていることもあるでしょう。その、ことばにならないことばを聞こうとしなければ、子どもたちは訴えることすらあきらめてしまうかもしれません。

 また、前述の茂木は、親が何らかの「宿題」(ホームワーク)を意識して子どもにかかわっていこうとすると、「『宿題』の諸項目というフィルターをとおしてこどもの行動をみたり、対応したりする傾向を強めるのではないか」とし、「これは日常生活を非日常的なものに変えてしま」い、「通常の子育てのように、子どもの生活と活動の全体から出発して、臨機応変に対応するという取り組みを弱めてしまうおそれがある」と指摘します。個別の訓練場面での整理された環境や日課とは異なり、実際の生活場面は変化に満ち、親やきょうだいなど他の家族のさまざまな思いや行動も含み込みながら展開されていくものです。そうした生活のなかで、さまざまな「失敗」も経験しながら、子どもも親も成長していくわけですが、行動療法、応用行動分析では、そうした「失敗」を最初からマイナスのものとしてしかとらえていないように思います。子育てとは、「臨機応変の対応」の連続でもあるのですが、その力を親が獲得していくことはとても大変なことです。でも、日々の子育てのなかで、失敗したけど「ま、いいか」「これくらいなら大丈夫」とおおらかに受けとめられるようになっていくのも生活の大切な意義であり、そうしたおおらかさを奪ってしまわないのか危惧します。

 さらに、こうした行動療法、応用行動分析はスモールステップを原理としており、「ガイドブック」でも「小さくてもできている行動を認めてほめることを続けていく」ことが大切だとされています。子どもに獲得させたい行動(たとえば歯磨き)を細かく行程分解し(歯ブラシを水でぬらす、歯磨き粉をつける…)、その一つひとつを「ほめる」ことで獲得させ、結果的に歯磨きという行動の獲得につなげていくのがスモールステップですが、子どもたちの発達をみていくと、「小さい行程」を積み上げたら行動の獲得につながるといったものではないと実感します。「歯磨き粉はうまくつけられないし、とんでもない量をつけたり、落としてしまったり、そこらじゅう水浸しにしてしまったり、ほとんど歯は磨けていない」けれども、「自分で磨いたよ」とばかりに満足そうにしている姿に出会うことも多いですよね。そして、その満足感が「次もやろう」とするエネルギーにもなっていきます。

 田中昌人さんは、可逆操作の概念を発達理解に導入するにあたって、「可逆操作」とは、それ以上に分解することのできない、分解してはならない「単位」でもあるとしました。「1歳半の節」であれば、「やりたい」という目的意識や、やったあとの「満足感」「達成感」が子どもの内側にためこまれていくまでが「単位」となります。その子どもの「単位」を、おとなのものさしでブツ切れにさせてしまってはいけないと思います。


子どもも親も“まるごと”受けとめられる場を
 
 もちろん、どの子も「愛されたい」「大事にされたい」と願っています。子どもに対し否定的にかかわり続けることが、子どもの発達に大きな悪影響をもたらすことは言うまでもありません。ただ、子どもを肯定する、受容するということが、単に<ほめる⇔ほめられる>の関係だけでつくられていくものではないと思うのです。

 かつて「療育」で出会ったお母さんは、電車が大好きな子どもと毎日のように電車を見に行き、1時間も2時間もつきあっていました。でも、子どもはなかなか帰ろうとはしません。「帰ろう」と言うと泣き叫ぶようになります。「療育」では、他のお友だちがもっているものに興味をもつようになり、それをとりあげようとして結果的にお友だちに手が出てしまうことが増えていきました。それを止められると、やはり泣き叫びます。そうした姿に先生たちもとまどいながらも、どうしたら楽しく遊べるか、保育の工夫をつづけていました。家でも園でも「困った姿」が増えていたのですが、お母さんは、線路脇から帰ろうとしないとき、お友だちに手が出てしまったときに、「赤ちゃんにごはんあげないといけないから帰ろう」「お友だちをたたいたらダメだよ」と言い聞かせながらも、お母さんも泣きながら「つらいね」「しんどいね」と言って、泣き叫ぶ子どもをぎゅっと抱きしめているしかない、という話を先生に話します。それを聞いた先生たちが、「お母さん、つらいね。がんばってるね」と一緒に涙を流したと聞きました。そうした時期は半年ほど続いて、そのあと彼は少しずつ自分の気持ちと折りあいをつけられるようになっていくのですが、そのつらい思いを含めて自分をまるごと受けとめてもらったという感覚は、彼の人格のなかにきちんと備わっていくように思うのです。子どもを「ほめる」ことはもちろん大切なことですが、子どもの行動を「ほめる」だけでは、子どもはまるごと受容されているという感覚にはならないでしょう。ほめられるかどうかばかりを気にして、おとなの顔色をうかがうようになることだってあるのです。子どもたちは、自分の不器用さ、うまくいかなさともたたかいながら、つらさ、悲しさ、悔しさといった感情も含めて“まるごと”受けとめられることを望んでいるのではないでしょうか。そうして自分が“まるごと”受けとめられる安心感があるからこそ、自分で自分をつくりかえるという発達の主体としての力を発揮していくように思います。決して「ほめ言葉」で子どもを操作するようなことがあってはならないと考えます。

 そして、このことは親にもあてはまります。障害や発達支援を必要としている子どもたちの場合、乳児期からの「育てにくさ」をもっていることが多く見受けられます。泣いてばかりいるけれども何がしんどいのかわかりにくい、夜ぐっすり寝てくれない、離乳食の段階から過敏で食べてくれない、身体に触れられることを嫌がるといったことが多くあります。一方で、はたらきかけても反応がかえってきにくいということもあるかもしれません。そうしたことが必ずしも障害によるものというわけではないのですが、その「育てにくさ」は親としての自信を失わせます。自分が我が子に否定されているような思いになることもあります。「こんなにがんばっているのに」という思いは、苛立ちに変わり、子どもが悪いわけではないと思いながらも子どもを責め、そして自分自身をも責めてしまいやすいのです。そうした親をまずは「そのまま」「ありのまま」に受けとめる人間関係があることが保護者支援の「はじめの一歩」(連載 第Ⅱ部第2回5月号)ではないでしょうか。


学習参考文献
 茂木俊彦『障害は個性か―新しい障害観と「特別支援教育」をめぐって―』大月書店、2003年


もう一つの「発達のなかの煌めき」第15回 PDF版


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2023年09月06日