連載10回<もう一つの「発達のなかの煌(きら)めき」>(解説版)

もう一つの「発達のなかの煌(きら)めき」
第10回 導き、導かれる関係のなかで自分を育てる



はじめに

 新年あけましておめでとうございます。

 昨年度は、『みんなのねがい』の連載「発達のなかの煌めき」(以下では「連載」)、そしてこの「もう一つの『発達のなかの煌めき』」(以下では「もう一つ」)で本当にお世話になりました。皆さんからいただいた励ましや気づきの声に、たくさんの新たな視点をいただくことができました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。


前回の復習から

 連載第9回(12月号)では、幼児期の発達の階層である「次元可逆操作の階層」の第3段階である「3次元可逆操作」の形成期となる「3次元形成期」をとりあげました。その発達的な解説を、前回の「もう一つ」で詳しく述べました。この「3次元形成期」は、「9歳の節」からはじまる学童期半ば以降の「階層」(「変換可逆操作の階層」)への飛躍のための力である「生後第3の新しい発達の力」が誕生するときであることを説明しました。

 これまでにみてきたように、4か月で生まれた「生後第1の新しい発達の力」(『新版 教育と保育のための発達診断 下』「第1章 乳児期前半の発達と発達診断」)は乳児期後半を切り拓く力となり、10か月で生まれた「生後第2の発達の力」(『新版 教育と保育のための発達診断 下』「第2章 乳児期後半の発達と発達診断」)は幼児期を切り拓く力になったのと同様に、5,6歳で誕生する「生後第3の新しい発達の力」(『新版 教育と保育のための発達診断 下』「第6章 5~6歳の発達と発達診断」)は学童期半ば以降を切り拓く力にもなるのです。

 その具体的な姿として、前回の「もう一つ」では、①過去や未来への時間軸ができはじめ、そこに自分を位置づける、②「ちがう」と「おなじ」を一つの事物・事象のなかに見出す、③「書きことば」の土台は、すじ道立てて考え文脈を形成すること、④仲間・社会とつながって、「書きことば」は人格の発達へとむすびついていく、⑤「二分的評価」を乗り越えた自己形成のねがい、の5点をとりあげました。

 前回の復習が長くなりましたが、連載第10回でとりあげた「導き、導かれる関係のなかで自分を育てる」は6点目の特徴と言えるでしょう。


『夜明け前の子どもたち』のこと

 連載では、びわこ学園(重症心身障害児施設・当時)の療育記録映画『夜明け前の子どもたち』(1968年公開)に登場する子どもたちを通して、上記の姿を紹介しました。これまで何十回となく、この映画を観てきましたが、いくつかのシーンと並んで今回とりあげた「友だち同士の食事の場面」も、最初からとても強烈に印象深かったシーンです。重度の肢体不自由をもっている子どもたちが、自分のリズムを刻むことも困難にみえるのに、相手のリズムにあわせて待ち、結果的に自分のリズムを意識し、自分をコントロールする力を高めていることに強い驚きを禁じ得ず、同時に大いに納得させられました。

 もちろん、誤嚥等の危険もありますから、指導者の目が行き届くところでとても慎重に進められた取り組みであったし、より脆弱性の強い子どもたちにおいては、こうした取り組みは難しいものでしょう。ただ、誰もがそうであるように、自分のことを理解したり、自分自身を意識するのは、自分一人ではできないものです。そもそも発達という営みそのものが、自分で自分を変えていくプロセスなのですが、その自分をみつめる力は他の人から切り離された関係のなかでは育っていかないものだと考えます。あのシーンは、人は誰もが、他者と関わりあうなかで自分というかけがえのない存在を浮き上がらせていくものであることを教えてくれているようです。

 食事場面の次のシーンは、10か月頃の「生後第2の新しい発達の力」を誕生させつつある子どもたちのリズム遊びの場面なのですが、自分が手にしている鈴のついたひもが、隣の友だちの動きによって揺れ、その揺れと鈴の音に誘われて、自分の手の動きが引き出されていきます。そうしてそれぞれの子どもたちが持ちあわせているリズムが重なりあっていく面白さのなかに、他者の動きを意識し、同時に自分の動きを意識しているようです。それは、話しことばの土台につながっていくのだと、当時の指導者たちは考えていたようです。今日でも、この発達段階にある子どもたちの教育実践においては、音楽やリズムがとても重要な位置づけをされているわけですが、当時のびわこ学園の指導者たちは、日々の子どもたちとの試行錯誤の実践のなかで、その値打ちを見出していったのだと考えます。

 映画では、先に食事のシーン、そのあとにリズム遊びのシーンとなるのですが、子どもたちのリズム遊びの面白さに着想を得て、友だち同士で食事をするという大胆な実践を試みたのではないかとも考えさせられます。


なべちゃんと生間くんの関係に学ぶ
 連載では、野洲川の河原での石運びシーンも取り上げました。この場面は、それまで多動であるがゆえに安全を守ることができないと、「必要悪」として白いひもにくくられていたなべちゃんが、そのひもから解き放たれて、自分の意志と力で目的的行動をつくろうとしていることに注目が集められてきました。また、常に手にひもをもっている自閉症の上田君に焦点をあて、彼にとってのひものもつ意味とは何かを探ることを通して、とても「人間的な」面に気づいていった職員たちの気づきが印象的な場面です。しかし今回、生間くんなどの「3次元の世界」を開きつつある子どもたちに着目して映画を見返すと、とても面白いことに気づかされました。

 上記の「友だち同士の食事」や「リズム遊び」は、発達的に共通の時期にいる子どもたちのグループで取り組まれた活動だったのですが、この石運びの場面では、もっと多様に、発達段階や障害の違いを超えた子どもたちの関わりあいがつくられています。いつも狭い居室やプレイルームで過ごすことが多い(映画内では「閉じ込められていることが多い」と表現されています)子どもたちが、河原という広い空間に出てきた(そのためには「手もかかる」ために、厳しい職員体制のなかで、その取り組みをすることは容易ではありませんでした)子どもたちと職員たち。「この河原の広さがあれば何かができるのではないか」と語られるナレーションの楽天的な響きに、観る側も期待が高まります。

 
 生間くんは、耳が聞こえないのですが、プールをつくるという石運びの目的も理解し、はじめて出会う他の施設の子どもとも一緒に石運びをするようになります。耳が聞こえず、就学も拒否されて、行き場のない思いをぶつけるように、壁に字のようなものを書きなぐっているシーンは、彼の切なさの奥に静かな怒りがあるのではないかと感じさせる場面です。思いはあるのに、コミュニケーションの行き先、受け手が不在で、壁に向かうしかない…その生間くんが、なべちゃんと組んで石運び作業に取り組みます。なべちゃんもまた耳が聞こえず、また発達的にもことばの獲得に至っていないことから、そのコミュニケーションは難しいと思われるのですが、生間くんは、なべちゃんに目の高さと呼吸をあわせるような動きを幾度かみせます。そして、なべちゃんも、職員が相手のときとは異なるやわらかな動きをみせます。


導き、導かれる

 3次元の世界を開きつつある子どもたちにとって、他者に教える経験はとても重要です。4歳児も、「教える」気持ちはあるのですが、まだまだ相手の視点に立つことが難しいため、一方的に自分がやるだけで終わってしまうことが多いのです(それでも、学びたい子にとっては、見様見真似ながらも一生懸命なので、結果的に「教える」行為が成り立つこともあるのですが…)。他者にわかるように教えようとすることは、必然的に他者の視点に立つことにつながっていきます。ある幼稚園での自由遊びでのこと。3歳児の子どもたちが、色水遊びをしているおにいちゃん・おねえちゃんたちのテーブルに近寄っていきます。自分もやりたそうにしている3歳児を見ながらも、4歳児は自分たちが色水をつくることで精いっぱいです。つまらないと思ったのか、3歳児たちは、そのテーブルからいつの間にか離れ、5歳児が遊んでいるテーブルに寄っていきます。5歳児は、4歳児とは異なり、3歳児たちに「何色したいん?」とちゃんと聞いてくれます。

 確かに5歳児には、年少児に教える力がぐんと備わってきていることを感じるエピソードです。このように教え教えられる経験が積み重なっていくことで、子どもたちは自分とは異なる視点を学び、それは徐々に「鉄棒は苦手だけど、絵を描くのは上手だよ」と多面的に仲間や自分のことを見ることにもつながっていくのでしょう。

 ただ、「教える」という行為は、ややもすると、自分の見方を一方的に押し付けてしまうときもあります。それが、相手を苛立たせてしまうこともあるでしょう。逆に、「教える」という行為は、かなり意図的、主体的な行為ですが、生間くんのなべちゃんへの接し方は、そこまで意図的ではなく、なべちゃんに合わせていくことで、結果的になべちゃんの姿をひきだしているように思えます。「教え、教えられる」というよりも「導き、導かれる」の方がしっくりくると考えて、この言葉を使わせてもらいました。


今回の学習参考文献

白石正久・白石恵理子編(2022)『新版 教育と保育のための発達診断 上』全障研出版部
白石正久・白石恵理子編(2020)『新版 教育と保育のための発達診断 下』全障研出版部



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2023年01月07日