連載<もう一つの「発達のなかの煌(きら)めき」>第1回解説版

白石正久・白石恵理子連載の解説版
〈もう一つの「発達のなかの煌(きら)めき」〉第1回


第1回 「障害のある子ども・なかまの発達」を学ぶために

 4月号の「生きる・つながる・発達する」はいかがだったでしょうか。私たちのもとで学んだ卒業生たちのしごとの日常を紡ぎあわせて、一つの手紙にしてみました。

 さて、この「もう一つの『発達のなかの煌めき』」は、『みんなのねがい』の連載、「発達のなかの煌めき」をお読みいただいている皆さんに、学習や討議を進めていくための手がかりを提供したいと企画したものです。連載の目的の一つである系統的な発達の学習が進められるように、私たちが編集したテキスト『新版・教育と保育のための発達診断・上巻―発達診断の基礎理論』(以下『上巻』)、『新版・教育と保育のための発達診断・下巻―発達診断の視点と方法』(以下『下巻』)を活用し、解説していきます (『上巻』は、今夏の刊行をめざして準備しています)。

発達の学習に王道はない
 私たちが発達理論を学び始めた学生時代、授業で学んでも、テキストを読んでも、大切なことは頭に入らず、理解が進まないことへのイラだちばかりを味わっていたものです。「学問に王道はない」のたとえ通り、テキストを100回は読み込まなければならないのだと自覚しました。そのころのボロボロになったテキストを学生たちに見せて、学習は苦労の多いものであり、本がきれいなままでいるはずはないと説いています。しかし、もっと大切なことは、理論と実践の間を何度も往復し、実際に向きあっている子どもやなかまのことを思い浮かべたり、指導・支援のありかたを問いながら学習していくことです。そうすれば、実践のなかでの子どもやなかまの姿から教えられ、学んだことが自分の奥底に染み渡るように、生きてはたらく力になるときがやってきます。楽ではない学習の過程だからこそ、一人ではなくみんなで、知恵や意見を出しあいながら学んでいくことが大切なのでしょう。

発達とは何か
 それでは連載第1回「生きる・つながる・発達する」の解説編に入ります。

 発達は、人がよりよく生きるために一生懸命に事物や事象(自然や文化)にはたらきかけ、創造、変革しつつ、自分をも変革していく過程です。さらに、他者と向きあい葛藤しながらも、手をつなぎあうことの大切さを知り、そのつながりや集団を通じて、みんなが幸福になれる社会を創ることにも関わっていく過程であることを、今回の「生きる・つながる・発達する」では素描してみました。一人ひとりの発達は「閉じた」道すじではなく、社会とその歴史、集団、生活や労働、教育や支援のありかたとつながった「開いた」道すじであり、そのつながりのなかで、人格の輝きをもつようになるのです。

 そして発達は、子どもやなかまのことだけではなく、私たちのことでもあります。

 このことを念頭におきつつ、ここでは、これからの連載第Ⅰ部「障害のある子ども・なかまの発達」のために、「発達とは何か」ということを中心に整理したいと思います。

 まず、私たちが参加する全国障害者問題研究会(以下では全障研)の結成大会(1967年)の基調報告を紹介します。『下巻』の192ページから引用します。

「これまでわたくしたちは、はやく、たくさん、たくみに答えを出すことをめざす体制の中で育てられてきたので、発達とは、できないことができるようになる、上へのびていくことだという理解のしかたをしてきました。(中略)機能別あるいは領域別に比較し、ちがいとおとっている点をかぞえあげることを発達研究とよび、細かい尺度をつくって、できないことができるようになることをおいもとめたりします。つまり発達とは個人が連続的、調和的に上へのび、社会に適応していく過程だと理解していたわけです。

 しかし教育実践の中で発達とは、そのような受身的、連続的な適応の過程ではなく、主体的に外界にとりくみ、外界を変革していく過程としてとらえなければならないのだということをしり、討議をすすめることができてきました。それによって、IQなどをすてることもできるのではないかといわれたりしています。しかも、発達はたとえば、獲得した操作のしかたが高次化するという、一つの方向へのびるだけではなく、獲得した操作のしかたを、志向的に、豊かな自由度をもって高めていく、いわばヨコへの発達を必然的に内包しているのだということも討議することができだしました」。

 当時、発達は「できないことができるようになる」「できることが増える」という成長の事実とその量的な拡大として理解されていました。知的障害がある場合には、IQ(知能指数)やDQ(発達指数)を用いて、機能・能力のアンバランスを描き出し、障害に固有な傾向や、人格の特徴をも説明しようとされていました。障害のある人びとを人間としての普遍性や共通性において理解しようとする視点は、当時の発達研究には乏しかったのです。

 また、このような視点は、「できないことをできるようにする」「遅れている機能・領域を引き上げる」「障害の宿命的特徴として教育を放棄する」ような教育の方法と結びついていました。そこでは子ども本当の思いである、感情、意欲、意志などは見過ごされ、ただ受動体としてとらえる見方が支配的になっていました。

 教育制度においては、全障研が結成された当時、「精神薄弱児」と呼ばれた知的障害のある子どもは、1953年文部省通達「教育上特別な取扱を要する児童生徒の判別基準について」で「精神発育が恒久的に遅滞」したものであるとされ、1957年通達「精神薄弱の学齢児童生徒に関する就学について」などによって義務教育から実際に排除されていました。

 一方、その社会の一隅において、「精神薄弱児」入所施設・滋賀県立近江学園では、文部省の「判別基準」に対して、「育ちのなかにねうちを発見して、そのみちすじをたしかなものにしていく」という姿勢に立って、「発達しないとみられている人たちの発達を研究し、発達の道を拓こう」という意志をもった研究が取り組まれ始めていました。後に全障研の初代全国委員長となった田中昌人さんが、近江学園研究部に就職したのは1956年のことです。

 さらに1963年に開設された重症心身障害児施設・びわこ学園などにおいて、「障害のある子どもの再発見」と言うべき事実が見出されていきました。「寝たきり」と言われた重症児が、粘り強い実践のなかで生涯においてはじめての笑顔を花開かせた姿、介護の保育士のオムツを換える手を助けようと、あらん限りの力で腰を浮かそうとする姿、「動き回る」といわれた多動な子どもが、すくってはこぼし、押しては戻す動きのなかで、「…ではない…だ」という1歳半頃の力を自分のものにしようとしている姿、そしてマヒのある不自由さに打ち克って、友だちの動きにあわせながら食事を食べさせようとする姿がありました(「びわこ学園」の療育記録映画『夜明け前の子どもたち』1968年。また『上巻』第Ⅲ部・第1章「乳児期の発達段階と発達保障」)。これらの実践は、どんなに障害の重い子どもも自ら外界や他者にはたらきかけ、そうすることで外界、他者との関係、自分自身を創造し、それを取り込みながら自分を変革していこうとする発達の主体であることを見出してきました。

 その頃、こういった施設実践と呼応するように全国各地で広がっていた障害児の不就学をなくす運動と実践のなかで確かめられた多くの発達の事実が、近江学園などでの研究と一つに練り上げられ、先の全障研結成大会「基調報告」に書かれた発達観・教育観となっていきました。これらの経過は、『上巻』の第Ⅰ部「子ども・障害のある人たちの権利と発達保障」で解説されています。ぜひ、お読みください。

「発達段階」と「発達の節」
 この「もう一つ『発達のなかの煌めき』」の連載では、「障害のある子ども・なかまの発達」について、発達の道すじにそって解説していきます。今回はまず、「発達段階」と「発達の節」について説明します。『下巻』6ページの図2「発達段階の説明図」を参照してください。

 発達とは、坂道をのぼっていくようなものではなく、どちらかというと階段をのぼっていくような変化です。階段の横面(踏面)にあたる部分が「発達段階」、縦面(けあげ)にあたる部分が「発達の節」ととらえていいでしょう。言い換えると、発達には量的変化を中心とする時期と、質的変化を中心とする時期が交互に訪れるということです。ある発達段階において、量的蓄積が少しずつ進んでいき、それが一定の限度を超えると新しい質の獲得に至ります。これは、人間の発達だけではなく、自然や社会の様々な事物や事象においてみられる変化であり、あらゆる事物や事象はこうした変化、すなわち運動を続けます。氷、水、さらには水蒸気への変化をイメージしてもらってもよいと思います。

 発達をこのように量的変化と質的変化の両面からとらえる見方は古くからあったのですが、障害のある子どもたちに対しては、なかなかそのようにとらえられてきませんでした。すでに述べたように、子どもの発達をとらえる指標として、基本的にIQ(知能指数)やDQ(発達指数)が用いられることが多いのですが、これは知能検査もしくは発達検査から得られた結果(精神年齢、発達年齢)を実際の年齢(暦年齢)で割って100倍した数値です。たとえば、5歳の子のIQが60であるということは、精神年齢が3歳ということになります。その子が10歳になったときに再度、知能検査を受けて結果(精神年齢)が4歳であったとします。「3歳」から「4歳」に変化していますから、きっと話しことばでのやりとりが広がってきたのだろうな、色や数などの抽象的なことにも興味をもって、わかりかけてきたのかな…と大きな変化を実感できるはずですが、IQでみると、60から40に低下することになり、療育手帳では「軽度」判定から「中度」判定に変わることになります。発達的に変化していると思うのに、検査を受けたらより数値が低くなっていたということで親御さんがショックを受けたというような話はよく聞かれるのではないでしょうか。IQやDQ、さらに言えば精神年齢、発達年齢でとらえることの問題点については、『下巻』第Ⅰ部「発達保障のための子ども理解の方法」(14-32ページ)で説明されています。

「可逆操作の高次化における階層-段階理論」
 戦後、「教育勅語」は否定され、教育は国家や天皇のためのものではなく、一人ひとりの子どものためのものとして大きく価値転換がなされました。学校教育法に障害のある子どものための学校や学級も位置づけられました。しかし先に述べたように、障害が重い子どもについては、IQが低い=障害が「重度」であるという理由で、教育の対象とはみなされず、学校に行きたくても行けない「不就学」の時代が続いたのです。そうした子どもたちを受け入れていた近江学園で、1950年代後半から田中昌人さんを中心に、IQによってではなく、子どもの「内側から把握する」ことをめざして発達研究が取り組まれました。その後、その発達過程を「可逆操作の高次化における階層-段階理論」として提起していきました。

 ここでも、『下巻』6ページの図2「発達段階の説明図」を参照してください。この理論では、発達の基本単位として可逆操作に注目しました。可逆操作については、あらためて詳しくとりあげますが、ここではとりあえず、発達の主体は子ども自身であり、子どもが外界や自分自身にはたらきかけながら自分自身を変革していくプロセスが発達であるという発達観にたち、そのはたらきかけのしかた、外界や自分自身の認識のしかたを示すものとして可逆操作なるものをとらえたとおさえておきます。そして、通常、生まれてから9,10歳にいたるまでに、3つの種類の可逆操作をとりだすことができるとし、それを「回転可逆操作」「連結可逆操作」「次元可逆操作」と名づけました。その後、9,10歳以降についても仮説的に提起されていきますが、この連載では、9,10歳ころまでをとりあげます。「回転」「連結」「次元」の意味するところは、これからの連載でふれていきます。

 通常、生後半年間は「回転可逆操作」を特徴とする時期で「回転可逆操作の階層」(通常の「乳児期前半」にあたります)、生後半年をこえて1歳前半までが「連結可逆操作の階層」(「乳児期後半」にあたります)、さらに「1歳半の節」からが「次元可逆操作の階層」となり、この生後第3の階層は7,8歳ころまで続きます。この「階層」という用語も難しいですが、複数の段階を含み込んだ、より大きな段階ととらえればよいと思います。階層のなかには複数の段階を含むと書きましたが、上記理論では、それぞれの発達の階層に3つずつの発達段階があるとします。第1段階、第2段階、第3段階と進んでいき、次は第4段階かと思いきや、第4段階ではなく、新しい質をもった次の階層の可逆操作の獲得に進んでいくとしたのです。発達は「4」にはならず、「3」を積みあげていく螺旋階段の構造であることについては、『上巻』第Ⅲ部・第1章「乳児期の発達段階と発達保障」で説明しています。

 「回転可逆操作」から「連結可逆操作」、「連結可逆操作」から「次元可逆操作」などと可逆操作の質が大きく変わる「飛躍的以降の時期」、すなわち「大きな発達の節」として取り出せるのが「6、7か月の節」「1歳半の節」「9歳の節」ということになります。

 先ほど階段をのぼるような変化と書きましたが、この「大きな発達の節」さらには、それぞれの階層内の「発達の節」は、決して簡単なものではありません。質的な変化が行われるということは、言い換えると、それまでの「古い自分」を崩して「新しい自分」をつくりあげるという至難のプロセスでもあるのです。4月号に登場したリョウちゃんは「4歳の節」にあると書かれていましたが、この「節」においても、それまで「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と言われることに嬉しさを感じてきた子が、おとなから押しつけられる「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」に抵抗して、自分なりに「大きくなる」ことの中身をとらえようとして反抗を強めたり、それまで以上に周囲や自分がみえてきて、思い通りにならない現実に自分を否定的にとらえイラだちを強めることがあります。こうした姿を単に「問題行動」とみるだけではなく、子どもの内側にどのような葛藤があるのか、どのようなねがいがうまれているのかを考えること、そして、その葛藤を自分で乗り越えていけるようなエネルギーを蓄えられるようにすることが教育に課せられていると言えるでしょう。そのために、『みんなのねがい』4月号32ページの写真のような子どもの後ろ姿から、その内面を理解できるまなざしを、私たちはもちたいとねがいます。なお、「4歳の節」については、連載第7回と第8回で、あらためて取り上げることにしています。

卒業生への返信
 最後にこのページを借りて、4月号に手紙を寄せてくれた卒業生に、一言の返信をしておきたいと思います。

 お便り、うれしく拝見しました。私たちは元気にやっています。今年は、卒業生の皆さんとお会いできる日があることを楽しみにしています。その前に少しだけご返事を書きます。

 リョウちゃんのお母さんから、「真紅の車を見ると先生のことをいつも思い出した」と聞いて、お母さんのなかにずっと留まり苦しめていたあなたのかつての未熟さを、「謝らなければならない」と思ったのですね。学生時代、いつも他者への気遣いをしていたあなたのことを思い出しています。でも、あなたの言葉から察するリョウちゃんのお母さんは、違う思いで赤い車を眺めていたのではないかと私たちは思います。

 中学部2年生のリョウちゃんの担任になったあなたは、お母さんから見れば「一回り」以上も歳の違う新任の先生だったのです。そのときには、「この先生、大丈夫だろうか」と心配になったかもしれません。お母さんも感じていたであろう学校という職場の大変さのなかで、この若い先生が教師として育っていってくれることを、祈るような気持ちで見つめていたのではありませんか。だから、同じ色の車に出会うと、あなたのことをいつも想ってくれていたのだと私たちは感じました。10年ぶりに、教師としてがんばり続けているあなたに出会えて、お母さんは安堵したのです。私たちも「発達相談員」としての駆け出しのころ、同じようにお母さんお父さんたちに見守られ、ときに叱咤激励されながら、一歩一歩を重ねてきたことを、昨日のことのように思います。

 もう一つ、これは私たちからの質問です。お手紙には、リョウちゃんが両手で慎重に卵を割るときの、手先を見つめる真剣なまなざしに、「4歳の節」を乗り越えているという実感をもつことができたと書かれていました。この「実感」とは、どんなことだったのでしょうか。卵に注意を集中しながら両手で割る、あるいは左右の手のそれぞれに注意を向け協応させながら卵を割るという、「…しながら…する」2次元可逆操作の獲得のことは、理解してくださっているようですが、このくだりを読んで、それだけではない「4歳の節」の大切なことがあると私たちは直感しました。それは、生活のプロセスのなかに、その能力を自らの必要によって取り込んでいこうする発達要求が発揮されるときがあったということです。きっと家庭生活において、リョウちゃんが「真剣なまなざし」になって、卵を割ろうとした瞬間があったはずです。その場面は何であったのか、そのときの発達要求とは何かを、私たちは知りたくなりました。今度お会いしたときに教えてください。宿題のようですいません。

 この冬は寒かったですね。重い空気に包まれたこの世界にも、春の花は咲いてくれました。

「みんなのねがい」4月号紹介ページへ(*「PDF版」はこちらです)

2022年04月01日