連載16回<もう一つの「発達のなかの煌めき」> 第Ⅱ部第4回
2023年10月 白石正久・白石恵理子
第16回(第Ⅱ部第4回)
青木嗣夫さんが教えてくれたこと ~平和、いのち、発達を守るために~
はじめに
私たちは、本年8月5日、6日に開催された全国障害者問題研究会(全障研)第57回全国大会(オンライン)で記念講演を担当しました。その時間を共有してくださったみなさんに、あらためて感謝を申し上げます。
記念講演、連載「発達のなかの煌めき」(以下では「連載」)では、糸賀一雄さん(第Ⅱ部第1回)、青木嗣夫さん(第Ⅱ部第5回)について、それぞれの果たした役割、遺された言葉を、私たちの思いとともにお話ししました。それは、その偉業を伝えしようとしたのではありません。時代が問いかけてきたことに対して、二人がどう向きあおうとしたのか、いかに自他と葛藤しつつ、力をあわせて時代を切り開こうとしたのか。その過程に、私たちが自らを重ねて学ぶべきことがあると考えてのことでした。
「連載」第Ⅱ部第1回、「もう一つの『発達のなかの煌めき』」(以下では「もう一つ」)第13回(第Ⅱ部第1回)で述べたように、近江学園の創設者・糸賀一雄さんは、第二次世界大戦で召集されながら病によって解除され、旧制中学の友人のほとんどを戦地で失ったことを、「生き残った」と語っていました。無数の生命が消えていく事実をまのあたりにし、国民の一人として自らの戦争責任を問いつづけたのでした。糸賀さんにとってその問いへの答えは、言葉や観念で表現されるものではなく、ただ実践においてでした。当時の未発表稿で次のように記しています。
「それは(近江学園建設のこと-白石註)、日本の社会事業一般に対する反省であると共に、教育そのものの反省でもあり、何よりも日本人そのものの反省と再建の道行であると信ずる。(中略)たとえ高尚なものであっても、画餅に等しい様なお説教を聞くよりは、生々しい事実の方が、人の胸を打つことを知っている。事実が何ものにも増して雄弁である。我々は苦しんでいる。この苦しみの事実を打ち明けて、一人でも多くの仲間と共に、更により高い苦しみに突進して行きたいと思う」(『糸賀一雄著作集Ⅰ』日本放送協会出版、176ページ、1982年)。
青木嗣夫さんの『凛として生きる』
青木嗣夫さんは、「連載」第Ⅱ部第5回でお話ししたように、障害のある子どもの教育権が保障されていなかった時代の1970年に本格開校した京都府立与謝の海養護学校(現与謝の海支援学校)の建設運動の中心にあり、後に同校の副校長、校長となりました。「連載」では全文を紹介できなかった与謝の海養護学校の校歌「ぼくらの学校」の歌詞を紹介します(現在は、校歌とはされていない)。
ぼくらの学校
一 おとうさん おかあさん せんせい
ちいきのひとたちが
しょめいあつめて ようきゅうにいった
あしのわるいぼくだって
ねたままのいづみちゃん
はいれる学校つくろうと
ぼくも てがみをかきました
二 おかあちゃん きいてや
あのこがだいじにされんかったら
ぼくかて だいじにされないのやで
おむつをしているみいちゃんも
くるまいすのあぐおくん
ぜんこうしゅうかい かいだんを
いつも ささえてのぼります
私(正久)が大学院の学生であったとき、全障研京都支部事務局長の池添素さんとともに、青木さんの生いたち、与謝の海養護学校の建設運動、そして府政が変わったもとでの教師としての日々をインタビューし、京都支部研究誌『夜明け』第10号「実践家群像5 発達の主体をみつめて-青木嗣夫先生の巻」(1986年)として投稿しました。京都支部のご了解を得て、添付いたします。
全障研大会の記念講演でお話ししたように(註1)、インタビュー当時、すでに京都府政は、「憲法を暮らしに生かそう」を掲げた民主府政から自民党府政に変わり、青木さんは1年ごとに勤務校の異動を強いられるなどの理不尽を被っていました。しかし、「障害児教育のなかで身につけたことが、一般の教育のなかで、どのように通用するのかを確かめる実践的検証の任務がある」と地域の学校に赴かれていたのです。
どこまで書いてよいものか、「発達の主体」などと書く私の筆によって青木さんが教育行政から難じられることにならないかと不安に思いながらお見せした草稿について、「事実は事実として残していくことが大切だと思いますので、このまま掲載してください」とご返事をいただきました。20代であった私は、思わず背すじが伸びたことを、昨日のことのように思い出します。
このインタビューのおりにいただいたのが、「実践家群像」でも紹介した名古屋・舞鶴学徒動員空爆体験記録編集委員会『凛として生きる―学徒動員の鎮魂歌―』でした。そのなかに「号泣」と題された青木さんの文章がありました。京都師範学校(現京都教育大学)から学徒動員され、名古屋に、そしてそこでの空襲後に舞鶴に移った青木少年は、空襲で親友の「起須君」を失いました。その遺体を自らの手で荼毘(だび)にふし、終戦によって帰郷を許されたのちに、遺族の元に遺骨を届けた日の情景が綴られていました。玄関で青木さんの腕から遺骨を奪い取るようにして抱いた起須君のお父さんの号泣の姿が書かれていました。
「私たちの教師としての生活に、一人の人間としての生きざまの中に、消すことの出来ない、いや、けっして消してはならない『宝』として持ちつづけてきたもの、それは『花もつぼみの若桜』として名古屋から舞鶴への学徒動員の中で見てきた戦争であり、人間の生と死であり、生きざまであった。工場で働き、空襲に会い、寄宿舎を消失し、親友の死に出会い、この手でまるで魚でも焼くかの如く長い鉄棒で親友を荼毘にふした悲しくもきびしかった経験。十七歳の少年が経験した事実であった。
同じ村の出身『起須君』を失った私は、毎年お盆が来ると墓前に立ち『君の分も仕事する。僕は二人分の仕事をせんなん』と年に一度ではあるが決意しつづけてきた。近年は、『果して二人分の仕事が出来たろうか』と自省しつつ、名古屋、舞鶴の経験をもち、戦後そのものを生きてきた教師として、『一体何を後輩に伝えるべきか』を考えさせられている」(青木嗣夫『未来をひらく教育と福祉』15~16ページ、文理閣、1997年)。
この言葉の通り、少年の日の戦火と親友の死が、青木さんの人生と生きる姿勢のなかに、いのちと平和を守ることへの妥協のない意志を鼓舞しつづけました。その希い(ねがい)が、いかなる存在に対してもその意味と価値を守り、発達を信頼しつづけた実践と運動の原動力になったのです。
子どもや親が、生きること働くことの意味を教えてくれた
このような先人たちの経験にふれたとしても、自分自身のことと重ねて考えることはむずかしいし、まして戦争経験もない私たちが、同じような信念をもってがんばることにはならないかもしれません。しかし私たちも、あるときに障害のある人びとやその家族と出会い、この人たちの幸福のために働きたいという思いをもって、教育や支援の仕事に就いたのです。
今、私たちの生きる時代は、新自由主義が席捲(せっけん)しています。個人としての成果、効率が求められ、そのための技能・スキルに疎い人間は、自分の不器用さをいやというほど思い知らされます。競争、分断、孤立が心に棲みついてきます。さらには、さまざまな「非正規」の雇用形態が拡大し、低賃金や不規則・長時間労働が多くの人を苦しめています。そのなかで自分の生きる意味や働く意味、存在の価値を感じとっていくことは、たやすいことではありません。生活の現実は、戦争の時代とは異なった「生存の危機」を私たちに強いています。
しかし、そういった桎梏(しっこく)があるからこそ私たちは、この矛盾多き社会と時代が問いかけてくることに対して背を向けず、自分なりの答えを探しながら生きようとしています。そして、障害のある人びと、家族が、私たちが背負う困難にも増して、この社会のなかでの障害という困難を引き受けて生きる姿に、その荷をわかちあうことができないかと思い立ちました。この時代のなかで私たちと障害のある人びとの二つの人生が出会い、その接点で私たちは自らの生きる意味を問いつつ、この仕事を選択したのです。その選択の背景にあった一人ひとりの希いは、私たちの心に深く刻まれ、生きる力そのものになってきたのではありませんか。そのころの自分を忘れずに、そして同僚のこころざしに耳を傾けて、前を向いて歩いていきたいと思います。
青木嗣夫さんの次の言葉は、障害のある人びとやその家族によって生かされているということの意味を、思い出させてくれるものです。
「私が人間として生き、教師として生きてきたその支えと勇気を、子どもたちがくれました。一介の平教師でありながら、(養護学校の建設を要求して-白石註)府庁の秘書課に一人で乗り込んで、知事に会わせてほしいと何時間も粘ったこともありました。それは私個人の問題ではなくて、私にそういう力を与えてくれた地域、親、子どもたちの強い強い要求がそこにあったからです」(前掲書、219ページ)。
良心に立ち返って生きる
私は、大学を出てから発達相談員という仕事に就き、全障研京都支部の事務局員として活動しました。当時、京都支部長であった青木さんは、本を買うことにも窮していた私を心配して、自身が関係していた保育園の講演会などに何度か招いてくださり、その道すがら、いろいろなことを聞かせてくれました。そのなかに、忘れることのできないくだりがありました。
最近、後輩の教員からしばしば受ける相談がある。「管理職への登用を打診されている。これまで教職員組合や地域の運動でがんばってきた身として、どう対応したらよいかと悩んでいる」と。青木さんは、自民党府政になって早晩、民主府政時代の教育理念、体制を「ひっくり返そうとする」力がはたらくことは予期していました。実際に、一人ひとりの発達要求と発達への権利を認めあい、集団のなかでの豊かな人格の発達を実現していこうとする「発達保障」という理念は、実践の場から排除されていきました。
そして青木さんは、私にこう言われました。「肩を叩かれている本人が一番つらいと思う。名を捨てて実(じつ)を取るという言葉もあるが、折りあいをつけるということは、大事なことを守りつつ、ものごとを進めていくうえでは大切なことだ。ただ、自分が障害のある人や社会的に弱い人のために働こう、そのために社会を変革していこうと決意した信念までを捨てないことが大切ではないか」。ハンドルを握りつつそのことを語られる姿は、30年を経過した今でも私の心に残ります。それは、私に対しても、語ろうとして語ってくれた思いだったのでしょう。
青木さんに相談を寄せた先生方は、やがて管理職、要職に登用され、私たちの研究運動に参加されることはなくなりました。今はもう、教師としての仕事からは勇退し、次の人生を歩かれていることと思います。このことに対して、私から申し上げることはありません。しかし、「肩を叩かれている本人が一番つらいと思う」と語った青木さんの言葉は苦しそうでした。「肩を叩かれている」とは、信念をまげて、私たちのがわに来なさいと促されているということです。青木さんは、その苦しさを、ご自身に引きよせて感じていたのだと思います。今、もし、青木さんが「後輩」たちに語ることができるならば、きっと次のようなことを言われるだろうと私は想います。
苦しかったろう。しかしその時代を君は生き抜いた。今、最初のころの志に戻って、弱い立場の人びとを守るために、そして社会と政治を良くしていくために、みんなと力をあわせたらいいじゃないか。君にもやらなければならないことは、きっとたくさんある。
青木さんが好んで口にした言葉に、「ピンチはチャンス」があります。ピンチの裏には、必ず発展のきっかけが潜んでいる。だから大切に受けとめてその背景を読み解き、ピンチだからこそ人とつながって、学校や地域を変革するチャンスに変えていくという姿勢でした。そこには、人間の良心と復元力への信頼がありました。歴史は、曲折はあっても、人間を抑圧し隷従させようとする力を乗り越えて、一人ひとりが大切にされる方向へと進んでいく。そのことへのゆるぎない確信を感じるのです。それは、これ以上の不正義はない軍国主義の本質を、もっとも純粋な感性と正義感のある年齢で感じ取った人の渇望でもありました。
憲法を生かす想像力の発達
糸賀一雄さん、青木嗣夫さん、そして大戦を経験した国民の多くは、その戦争に突き進んだ国のあり方を問い、無力であった自らを反省し、苦しい思いをもって戦後の歩みを始めました。そのなかで形づくられた生きる姿勢や人格は、個人的なものにとどまらず、新しい歴史を切り開こうとする国民のねがいとなって共鳴しあい、日本国憲法を抱く力になりました。その国民のねがいを、憲法の前文がよく語ってくれています。
日本国憲法・前文(抜粋)
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人類相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。
敗戦後に生まれた私たちの世代が、子どものころ、憲法第9条を学んだときの感動も特別なものがありました。私の父は青木さんと同じ歳(1928年生まれ)であり、現群馬県太田市にあった「中島飛行機(現SUBARU)」の戦闘機工場に学徒動員されました。当時、日本本土は米軍による空襲をいたるところで受け、そのアメリカの戦闘機の大きな機影に、米粒のように小さな日本の戦闘機が体当たりし、もろともに砕かれていった光景のことを、一度だけ聞かせてくれました。それから私は、その戦闘機のなかにはどんな人が乗っていたのか、何歳の人だったのか、親はどんな人だったのか、そんな問いをもちつづけました。ですから小学校6年生のときに、日本は憲法で「戦争放棄」を決めているので、もう誰も戦争では死なないと教えられたときの不思議な安堵感は忘れられません。一度だけの父親の話は、私のなかで消えることはありませんでした。ですから、糸賀さんや青木さんの戦争体験とその戦後を記憶として保持しつづけ、しっかりと語り継いでいくことこそ、私たちの世代の役割だと自覚しているのです。
今、世界にはふたたび戦火が燃え立ち、たくさんの生命が奪われつつあります。しかし、ゲームの陣地戦の実況のような報道ばかりがなされ、私たちはそこで奪われていく一つひとつのいのちのことを知ることも想像することもできません。戦火のなかでも、家族の幸せをねがって働き、家族を守りながら暮らそうとする、私たちと変わらない人びとの生活があるはずです。それをたしかに想い描くことができるならば、人も国家も、銃を構えることなどできないはずです。
かつて私は、『みんなのねがい』の連載をまとめた『発達をはぐくむ目と心』(全障研出版部、2006年)の結びで、次のように書きました。
「今、かつての過ちを覆い隠し、アメリカの戦争に加担し戦争を準備しようとする力が強まりつつありますが、再びあの惨禍を経験しなければ、人間の尊厳を再学習できないような愚かな歴史に道を開いてはなりません。時間的に遠ざかろうとも、つねに歴史の教訓に学び、つねに過去よりより良く生きようとする力を人間はもっていることを確信して、学習しつつ歴史を創造する活動を、粘り強く、もっと力強く続けていかなければなりません。
幼き日に父から聞いた砕け散る戦闘機の映像が、私の中でそこにあったいのちへのイメージとして生き続けたように、私たちの学習運動は、常に個別的で具体的ないのちのことを語り継ぐものでなくてはなりません。それは、戦争によって脅かされているいのちとともに、障害をもちながら愛情によって結ばれ育まれているいのちを語ることでもあります。そこには、常にstoryがあるのであり、そのstoryが多くの人の中にあるいのちへの愛情に届いたときに、いのちの営みへの想像力を喚起し、生存と発達を権利として希求する発達保障の理念と運動への共感を呼び起こすことができるのではないでしょうか」。
そこにおいて求められるのは想像力であり、その想像力をはぐくむ土台は、共感の心と言ってよいでしょう。想像力や共感の心は、愛をもって語る生活の営みのなかで、他者やその人の暮らす社会に視座をおいて、考え、想い描くことによって発達していきます。この想像力、共感の発達があればこそ、私たちは、すべての人の基本的人権を真に尊重できる存在になっていくのであり、そのことによって一人ひとりの人間を大切にする社会と国家をつくる条件が準備されていくのです。憲法を本当に生かし守る力は、個と集団における想像力の発達によってはぐくまれていくことでしょう。
おわりに
青木さんは、先に紹介した「実践家群像」の結びで、次のように語りました。
「今、子どもたち(当時、校長をされていたのは野田川町立江陽中学校)に『事実をもとにし、自分の頭で考え自分で自分の意思を決定し、みんなと取り組む力を育てよう』と云っている。(おとなも)きびしい諸状況があるだけにこの事を大切にしながら自分の目の前にある仕事をがむしゃらにやる。そのことによって、展望がひらけ、理解してくれる人もふえるにちがいない。もっとほかにするべきことはないのか、こうしたら、ほかの人はどう思うだろうなどと考えていては、結局、自分の仕事を成し遂げることができない」。
この「諸状況」という言葉には、教育行政の変化によって引き起こされているさまざまな困難のことが包含されています。その困難をあげつらうだけでは何も展望は見えてこない。どうしたらその困難を克服できるか、仲間とともに知恵を絞り、腕を組んで、「がむしゃら」にそれを乗り越えていこうとすることによって道は開ける。青木さんの言葉を、私はそう理解しました。
「がむしゃら」を、今を生きる私たちはどう受けとめたらよいでしょう。血気にはやってふるまうことですが、その一生懸命さが向かっている対象、目的が問われるのだと思います。子どもの要求、親の要求に徹底して学び、それが出されてくる生活の現実を想像、認識し、未来を切り開く要求へと撚(よ)りあわせていく。「連載」第Ⅱ部第5回では、青木さんに学んで、そうお話ししました。同じく「連載」で紹介した「やらんならんときには、やらんならん」(註2)も、教師が自己犠牲的に頑張ることではなく、それが教師の要求でもあり、教師の生きる意味、働く意味を問うていくことにつながるという確信をもって、「がむしゃら」に頑張るという言葉だったのだと思います。そこには、ひたむきに生きる人びととその要求への誠実さがありました。今、問われているのは、「がむしゃらさ」になって現れる「誠実さ」を、私たちも胸に抱けるかだと考えます。働いていくうえでいろいろな困難はあるけれど、それを子ども、保護者、同僚のせいにしたり、諦めたり見限ったりしない粘り強さを信条とすることだとも思うのです。
青木さんの遺した言葉、その生きざまから、「誠実さ」という言葉を、あらためて受けとめたいと思いました。
(註1) 2023年8月5日、全障研第57回全国大会記念講演より。「発達保障の理念への攻撃」
さて、「発達のなかの煌めき」の第Ⅱ部では、「発達の共感」が生まれる実践や生活の場をたどっています。「発達の共感」が成り立つ人間関係は、手をつなぎあう集団となり、要求を共有して社会を変えていく力になります。だからこそ、今のままの政治や経済を維持しようとする人びとにとって、それは好ましいものではありません。
私たちが大学に入学した1978年春、4月、「みなさんの運動に応えて学校をつくりましょう。人間を大切にするとはこういうことだという意味で、日本一の学校をつくりましょう」と与謝の海養護学校の建設を約束し、28年間続いた京都の蜷川民主府政は終わりました。この府政を支えた社会党、共産党の革新統一に楔が打ち込まれたからです。その後、青木嗣夫さんに対して、校長として1年ごとに異動が強要されるなど、理不尽な人事が繰り返されました。しかし、青木さんはこう語りました。「私は最後の最後まで務めようと思いました。そのときに私を支えてくれたのは、筋ジストロフィーの子どもたちや、難病の子どもたちが、やがて自分の体はだんだん萎えていって、終わりになってしまうことを知りながら、なお自分で命を輝かし続けているではないかということです。(中略)あの子どもたちが最後まで灯し火をともし続けるように、私も教師としての灯し火をともし続けなければ、彼らに対しても申しわけない。そんな思いで最後まで務めることにしたのです」(『未来をひらく教育と福祉』文理閣、219ページ、1997年)。
そして1995年、66歳で亡くなったころから、青木さんが「何は失っても、最後まで守らなければいけないもの」と言われていた発達保障の理念への攻撃は強まり、そういったことを研究する研究者は不適切として学校の共同研究から排除され、「発達保障」という言葉を使う自由も制限されました。そして、さまざまな分断が職場にもちこまれました。
そういった経過を身近にみながら、私はむしろ、このあからさまな学問や教育の自由への攻撃にこそ、発達保障の理念の大切さ、消えることのない灯火が映されていると確信を深めてきました。人間の良心は、一度は消えそうになっても、必ず新しい灯火となって輝きます。ふたたび、この理念に心打たれた誠実な青年教師が、子どもの要求を何より大切なものとして耳を傾け、家族が厳しい生活の現実とたたかう姿に心を寄せ、学校や社会を、手をつなぎあって変革していく日がやってくる。そのために、今は、仲間を拡げて、深く発達保障を学習し、学校の内外で子どもや親の要求を聞き、それを叶えるために知恵を出しあうべきときです。何より全障研が、歴史の負託に応えて、発達保障の理念を、胸を張って伝えようとしているかが問われています。
(註2)「やらんならんときには、やらんならん」
添付の「実践家群像5」にあるように、青木さんは1948年4月より、京都府与謝郡加悦町立桑飼小学校で勤務しはじめます。この桑飼小学校に宮津与謝地方ではじめての「特殊学級」(現
特別支援学級)ができ、その担任になります。1954年には宮津市立宮津小学校に転任。翌1955年に、宮津小学校にも「特殊学級」が設置され、その担任となりました。戦後になり、お国や天皇のためではなく、子ども自身のための教育をという運動と実践が燎原の火のごとくに広がっていきますが、そのなかで、「障害を受けている子ども、ちえおくれといわれている子ども、そういう子どもたちを放置しておいて、本当に日本の民主的な教育が確立するのだろうか、できないできないままに放っておいて、できるこどもだけに手厚く教育をしていくようなことで本当に民主教育といえるのだろうか」(『未来をひらく教育と福祉』23~24ページ、文理閣、1997年)という問題意識が強まっていきます。それが、こうした「特殊学級」の開設につながっていったのです。それはまた、「勤務評定闘争」によって、「子どもの発達する権利を守ることと、教職員のしごとの要求・実践・研究・運動や権利要求を統一してとらえること、そして、父母との連帯を強化すること以外に、国民教育の創造は成立し得ないということを身をもって学んだ教師集団の、自己変革をもとにした意識的集団的な取り組みがあったから」(前掲
24-28ページ)でした。
この「特殊学級」での担任を通して、ますます子どもたちの発達の事実に確信を得、学校に行けない(当時は、「知能指数49以下」の子は学校に入れなかった)子を育てる親の涙と切実な訴えを聴くなかで、青木さんたちは養護学校づくりをめざしていきます。そして、1968年からは、京都府立与謝の海養護学校開設準備室に勤務し、1971年4月からは同校副校長、1978年4月から同校校長となりました。
川嶋浩写真・青木嗣夫文『ぼくらはみんな生きている―与謝の海養護学校の実践―』(あゆみ出版、1978)では、養護学校設立からの10年間の歩みが、川嶋浩さんの写真と、青木嗣夫さんの文章で振り返られています。その青木さんの文章のなかに「私たち教職員」という章があります。
そのなかで「やらんならんときは、やらんならん」というのは、教職員集団としての内部規律であったと書かれています。「子どもの変化を喜び、子どもの変化に学び、親の要求に耳を傾け、親の要求に学び、仲間の鋭い指摘を発達の糧として、仲間とともに歩む」教職員、「〝すばらしい子ども集団を育てるためには、より質の高い教職員集団がなければならない〟といい合って歩んできた」教職員、何事も集団で話しあって進めてきた教職員だからこそ、いろいろと状況を分析し、集団の民主的協議で合意決定したら、決定したことは必ずやりきる。それが「やらんならんときは、やらんならん」に込められていると言います。きびしい外的状況があるなかで、「時には外的な原因を内部の矛盾と考え、仲間の間で激しい討論をし、時には、子どもの権利を守ることと教職員の労働条件を対立的にみて、自己矛盾に陥りかけた」こともあったのですが、そのたびに、また議論をしながら乗り越えてきたなかでの確信でもあったのでしょう。
たとえば、寄宿舎で赤痢が発生したときには、本当に厳しいとりくみがありました。学校は休校措置になるのですが、寄宿舎の子どもたちを家に帰すことはできず、休校期間中、どうするのかが大きな問題となりました。寮母(現
寄宿舎指導員)だけで対応することはできないため、全教職員が特別勤務の体制を組んで、一般教職員も寄宿舎に入ったり、健康な子どもは登校させて学校で対応したりしました。地域の病院の隔離病棟に入る子もいたのですが、障害があるということもあり、付き添いが求められました。しかし親の生活にも余裕がないなか、教職員が隔離病棟に入って子どもに付き添うことになったのです。いったん入ると1週間や10日は出てこられないのですが、職員会議の議論で、「私が入りましょう」と希望者が次々と挙手をしたそうです。実際に病棟に入ると、画用紙、クレヨン、絵の具など差し入れてほしいと声が出され、隔離病棟の中でも教育活動が組織されていきました。
赤痢が完全になくなるまでに2週間がかかったのですが、その総括をするなかで、「衛生指導、保健指導」の課題とあわせて、「教育と医療の統一的保障」の課題などが深められます。そして何よりも一つの方向に向かって全体が団結してとりくむことによって、大きく組織的力量を前進させることができたと言います。
学習参考文献
青木嗣夫『未来をひらく教育と福祉』文理閣、1997年。
池添素・白石正久「実践家群像5 発達の主体をみつめて-青木嗣夫先生の巻」『夜明け』第10号、111~119ページ、全障研京都支部、1986年。
川嶋浩写真・青木嗣夫文『ぼくらはみんな生きている―与謝の海養護学校の実践―』あゆみ出版、1978年。
白石正久『発達をはぐくむ目と心-発達保障のための12章』全障研出版部、2006年。